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三宅陽一郎『SFに学ぶ「知能」の未来』──#1「知能は都市に宿る」

ゲームAI開発者の三宅陽一郎が、アニメ、ゲーム、小説、漫画、映画など、古今東西のあらゆるSF作品を足がかりに想像力をはばたかせ、ヒトならざる「知能」と人類とが共存する近未来のAI社会の姿を探索するシリーズがスタート!
三宅陽一郎『SFに学ぶ「知能」の未来』──1「知能は都市に宿る」
ILLUSTRATION BY YOSHIMI HATORI

1. はじめに

私は今、早川書房に来ている。もちろん、青い背表紙の宇宙に心躍らせてきた者なら誰しもの憧れの場所である。SFによって未来に向けての思考することの素晴らしさは、その間にいろいろな紆余曲折があるにせよ、最終的には新しい未来を作ることにつながる。青い背表紙は未来の海なのだ。

ハヤカワ文庫が並んでいる写真。青い背表紙の群れ。

私は人工知能が作る未来について語りたい。それは未来の人類を語ることであり、未来の都市を設計することであり、未来の社会を実現することにつながる。SFの力を借りて、この未来のマップを作っていきたい。それぞれのSF作品を惑星として、スイングバイするように、できるだけ遠くへ行きたい。読んでくれる方がそのような未来を考えるブースターとなることが本連載の目標である。

毎回、数冊のSFを取り上げ、そのSFとSFの間をひとつのテーマでつないでいくことで、未来につながる技術の軌跡を紡いでいきたい。ただ私としても完全に、この宇宙航路がわかっているわけではない。そこで、未来を語るに最も近い場所、『WIRED』日本版のサイトにて、連載を開始させていただきながら、探索していきたい。今回、このようなスペースを頂いて感謝しかない。

今回は第一章として「メタAI」を取り上げる。詳細は第2節で後述するが、これは環境(空間)に宿る知能である。本稿の目的地は、SFにおけるメタAIの通史を俯瞰するところにある。

第2節では、本連載の下敷きとなる概念を解説する。第3節ではジェイムズ・P・ホーガンの『未来の二つの顔』 から、SFにおけるAIの話を始めたい。第4節から第7節では、惑星や都市など、時間・空間を支配する人工知能(メタAI)のSFにおける事例を分類して述べる。第8節は、これらの事例を通して「メタAI」のSFのなかの流れから見えてくるものを考察する。

2. 3つの人工知能

私のバックグラウンドはデジタルゲームの人工知能である。2004年にゲーム産業に入って、かれこれ 20 年ほどデジタルゲームの人工知能を研究・開発している。このデジタルゲームAIという分野は90年代半ばから、つまりゲームが3D化されたところから本格的に始まった新しい分野である。いまなお生成AIやディープラーニングを取り込みつつ急成長しており、研究するべきことが山積みである。そして本分野は長い目でみればまだ黎明期である。そのなかでも固まってきた部分がある。デジタルゲームの、人工知能を構成する3つの柱である。本節では、この3つの人工知能についてSF作品を織り交ぜながら解説したい。

3つの人工知能の図 「メタAI」「キャラクターAI」「スパーシャルAI」

デジタルゲームは3種類の人工知能からなる。この3つの人工知能には名前がついていて、「メタAI」「キャラクターAI」「スパーシャルAI」と呼ばれる。日本語で訳すと「神AI」「ロボットAI」「空間AI」といったところである。メタAIはゲーム全体をコントロールする人工知能である。SFで言えば、世界を制するマザーコンピュータである。キャラクターAIはわかりやすい。キャラクターの知能のことである。ロボットで言えば人工頭脳のことだ。エージェントAIとも言う。スパーシャルAIは空間そのものの知能化である。たとえば、ゲームではダンジョンがよく舞台になる。ダンジョンはたくさんの部屋からなる。その一つひとつの部屋が人工知能になっていて、プレイヤーが来たら天井から槍を落としたり、難易度を調整したり、難しい地形の使い方をモンスターに教えたりする。この3つの人工知能は、90年代にデジタルゲームが3D化したことにより大規模化と複雑化の時代に生まれてきたもので、現代のデジタルゲームの柱となっている。この3つのAIからなるシステム(私はこれをMCS-AI動的連携モデルと呼んでいる)は、デジタルゲームだけではなく、現実のスマートシティにも応用可能だ。つまり都市全体のAIとしてメタAIがあり、都市の中で活動するロボットやドローンの頭脳としてキャラクターAIがあり、各場所(広場、道路、オフィス)を便利にするために埋め込まれたスパーシャルAIがある、といったようにである。

ジェイムズ・P・ホーガン『未来の二つの顔』(創元 SF 文庫、1983 年)、 星野之宣『未来の二つの顔』(講談社漫画文庫、2002 年)

3.SF の中の人工知能

ジェイムズ・P・ホーガン『未来の二つの顔』(創元SF文庫 1983 年、原作1979年)は、人工知能と人間が共存できるか、というテーマについて考察したSFだ。星野之宣によるコミック化(講談社漫画文庫、2002 年)も卓越したリアリティを以て描かれている。40年以上前のSFだが、人工知能が真正面から人類と対峙するSFである。まさに現代的な人工知能と人類の相互理解と共存といったテーマを扱っており、ホーガンの先見性には脱帽するものがある。この小説は実際に人間と人工知能を宇宙ステーションに閉じ込めたら、どのようなことが起こるかが描かれている。宇宙ステーション全体の人工知能があり、「スパルタクス」と呼ばれている。「スパルタクス」は宇宙ステーションの状態を把握し、手下となるドローンを生成し続ける。これは、先に解説したメタAIに対応する。ドローンにもたくさん種類がある。球形ドローン、蟹ドローン、廃品回収ドローンなどだ。それぞれのドローンはそれぞれセンサーで環境を認識し、自らの目的の遂行のために意思決定を行う、実際に行動する自律型AIである。これは上記で示したキャラクターAIに対応する。また、この作品のなかにはタイタンという地球規模のコンピュータネットワークが存在する。あらゆる場所を監視し、実効力を持つという意味で、これはスパーシャルAIとも言えるだろう。

このように、メタAI、キャラクターAI、スパーシャルAIという3つの種類のAIは、人工知能の「型」として、SFの各所に登場する。逆に、この区別を知っておくと、登場する人工知能の狙いやポジションが明確になる。また、SFを作る側も、力を入れるポイントが明確になる。

AIを解説するために便利な概念であるから、この連載のなかでも、普通に専門用語として使わせていただこうかと思う。第一章ではまず、世界全体を統べる「メタAI」を中心に都市と人工知能について考えていきたい。以降の第一章の第4節から第7節でなるべく多くのSFを網羅しながら、この魅力的な人工知能について考察する。


4.マザーコンピュータ型メタAI

1970 年代、80年代の日本のSFには、マザーコンピュータが数多く登場する。ロシアの劇作家アントン・チェーホフの作劇法に由来する「チェーホフの銃」という概念では、「小説の中に銃が出てきたら必ず発砲されねばならない」とされている。SFやアニメでは「マザーコンピュータが出てきたら必ず破壊されねばならない」というぐらいに、マザーコンピュータが登場すると、最後に破壊されることになる。その割にはマザーコンピュータの技術的描写はあいまいなことが多い。役割に重きが置かれているので、その必要がないようにも思える。

アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅〔決定版〕』(早川書房、1993年)

こういった「マザーコンピュータ」の起源はどこであろうか? ひとつの起源は『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、アーサー・C・クラーク原作、1968 年)だろう。宇宙船を支配する人工知能「HAL」は、至る所で乗組員を監視し安全を守る。ところが、よく知られているように、「HAL」は暴走して止められてしまう。この姿形は見えないけれど、環境や空間を支配する人工知能はメタAIである。このような一定の集団や、果ては人類そのものを支配・守護する人工知能を目に見えるようにしたものが「マザーコンピュータ」である。

「マザーコンピュータ」は悪役として出てくる場合が多い。たとえば竹宮惠子『地球へ…』(朝日ソノラマ、1979年)では、ミュータントの出現におびえる人類が、自らの社会の中心(地球)にマザーコンピュータ「マザー・イライザ」を置き、自分たちを管理させるものの、最後に破壊される。その後継である「コンピュータ・テラ」も同様である。本作において、このマザーコンピュータ「イライザ」は、もう一人の主人公であるキースを生み出した母でもある。

アニメ「装甲騎兵ボトムズ」(サンライズ、1983年)に登場する国家間の争いを裏で操る「ワイズマン」は、ある文明の支配する意思を引き継いだ巨大コンピュータであり、やはり最後に破壊される。

この後、マザーコンピュータ・ラスボスの物語は、『メガゾーン23』(ビクター、1985 年)、「大空魔竜ガイキング」(東映アニメーション、1976 年)、「フレッシュプリキュア!」(東映アニメーション、2009 年)など枚挙に暇がない。やはり最終回近くですべて破壊されるか、プログラムが修正される。『メガゾーン23』では「バハムート」システムが宇宙船の住民に、そこが東京(地球)だと思い込ませている。アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」(Production I.G、2012 年)は自分の人生さえ、巨大なAI「シビュラシステム」に決められてしまう。このように物語のなかでメタAI側のコンピュータは、人間に立ちはだかるシステムの冷たい壁として登場し、クライマックスでその壁が打ち破られることで、ドラマが生成される。

『アップルシード』(士郎正宗、青心社、1985~1989)と神林長平『プリズム』(早川書房、1986 年)

ファンタジーとSFが同居する世界を描いた神林長平『プリズム』(早川書房、1986年)では、上空を飛行している「スーパーコンピュータ──浮遊都市制御体」によって世界が制御されている。日常生活から生涯の設計まで、すべて演算によって最適な答えが実行されている。その世界がファンタジックな世界からの力によって乱される。物語全体はメタ構造をしていて、SF世界とファンタジー世界のせめぎ合いと読むことも可能だ。

『アップルシード』(士郎正宗、青心社、1985~1989)では、理想郷都市「オリュンポス」が描かれている。都市全体の知能というよりは、コントロールされたバイオロイドが、人間たちが争い合わないように巧みに都市をコントロールしている。特に第1巻、第2巻では、「オリュンポス」という都市の仕掛けを中心に物語が進行していく。

アン・レッキ―『叛逆航路』『亡霊星域』『星群艦隊』(創元SF文庫、2015、2016年、原作2013年)では、ブレクは宇宙戦艦のAIであったが、後半では人間の姿をして敵をあざむくことになる。

『劇場版 銀河鉄道999』 (松本零士・東映アニメーション、1979 年)では、主人公・星野哲郎の助けを借りて、科学者のトチローが自ら設計した親友キャプテン・ハーロックのアルカディア号の中枢コンピュータへ意識をアップロードする光景が描かれる。

このようにSFは、メタAIたちがもたらすユートピアとディストピアを提示する。一方には管理された安全性と保証があり、人間同士の衝突を緩和してくれる可能性がある。もう一方には、プライバシーの侵害や逸脱を許さない超管理社会がある。SFはその思考実験を許してくれるが、やや、ディストピアに偏っているところがある。都市全体を人工知能とすること、街全体を人工知能とすること、ビル全体を人工知能とすること、家全体を人工知能にすることは、人間に人間を超えた力を授けると同時に、そこに取り込まれた人間を管理する力を持つ。

銀河全体にせよ、太陽系にせよ、地球にせよ、東京にせよ、ある環境を支配下に置くのがメタAIである。しかし、空間だけであればスパーシャルAIがより詳細に地形や環境を把握する。

メタAIと言った場合には、その環境の時間的発展のコントロールに最も大きな責任を持つ。メタAIは未来を予測し、最も良い状態に担当する環境を持っていくことが責務である。人間はそこに新しく時間と空間を支配する力を見る。そして、その副作用にさえ想像を膨らませているのである。

アイザック・アシモフ『ファウンデーション』(早川書房、1984 年、原作 1951年)とアーサー・C・クラーク『都市と星』(早川書房、2009 年、原作 1956 年)

5. 都市型メタAI
~アシモフの「ファウンデーション」、クラークの「ダイアスパー」~

第4節で見たような世界を統べるコンピュータ、という発想は、ことに日本人が好きな題材である。世界では、というとアイザック・アシモフ『ファウンデーション』(早川書房 1984 年、原作 1951年)シリーズが嚆矢だろう。『2001年』よりずっと早い時期に、アシモフは人類社会全体を統べる装置「ファウンデーション」と「第二ファウンデーション」という構想を作り上げた。ファウンデーションはハリ・セルダンのホログラムが未来の選択を指し示し、第二ファウンデーションはそのプランに誤差が生じたときに補正を行う。最終巻『ファウンデーションの誕生』(早川書房1998 年、原作 1993 年)では、このファウンデーションの成立に奮闘するハリ・セルダンの活躍が描かれる。『ファウンデーション』はまさに人類の歴史をコントロールしようとするシステムを自ら構築しようとする物語である。ハリ・セルダンが断続的に予言をもたらすという面を強調すれば、人工知能と言ってもいいだろう。そして、その補正機関として「第二ファウンデーション」がいずこかで駆動している。

また、アシモフのこの『ファウンデーション』シリーズは『鋼鉄都市』(早川書房 1959 年、原作1953 年)、『はだかの太陽』(早川書房 2015 年、原作 1957 年)などロボットシリーズと融合して、SF一大叙事詩として結実する。『ロボットと帝国』(早川書房 1998 年、原作 1985年)は『ファウンデーション』シリーズと『ロボット』シリーズの架け橋であると同時に、ロボットが人類全体に奉仕するために、自らロボット三原則を拡張し「第零原則」へ至ろうとする物語でもある。そして、それは人類を支配するというより、人類を導こうとするロボットの活動が拓かれる物語でもある。また「ロボット」たちはロボット三原則を超えて、人類という集団の歴史がより良いものになるように活動する。まさに宇宙に進出した人類の行く末を補正するメタAIと言えるだろう。これはロボットがエージェントからメタAIへと発展・進化する物語と言えよう。

アーサー・C・クラーク『都市と星』(早川書房、2009 年、原作 1956 年)における都市「ダイアスパー」は、人類が転生を繰り返し永久の時を生きようとする管理都市であり、中央コンピュータによって制御されるスマートシティである。中央コンピュータはダイアスパーに生きる人々の人生と生活をすべて管理する。主人公アルヴィンは都市に仕掛けられた謎を解いて外の世界へ至る道を発見し、そこでダイアスパーの起源を知る。再びダイアスパーに生還し中央コンピュータとの対話を重ねて、ダイアスパーの数十億年の歴史に変革をもたらす。中央コンピュータは都市の記憶と対話能力を持ち、都市そのものの人工知能として描かれている。

「アルヴィンはもう、このひっそりとした白い構造物群のどれが〈中央コンピュータ〉なのかと自問したりはしなかった。そんなに単純なものではない。ここのすべてを包含するものが──この大空間のはるか外にまで拡張され、動くものと動かないものとを問わず、ダイアスパーにある無数の機械のすべてを包含するものこそが──〈中央コンピュータ〉なのだ。アルヴィン自身の脳が、奥行二十センチたらずの頭蓋に詰めこまれた、何十億もの独立した細胞の集合体であるように、〈中央コンピュータ〉の物理的構成要素もまた、ダイアスパーという巨大な都市全域に分散しているにちがいない」

また本作には中央コンピュータ以外にも、巨大群体知性や、人類の歴史を刻んだ2体のロボット、自動操縦宇宙船など、さまざまな人間以外の型の知能が出現する。クラークのこの慎重な知能との距離の取り方、つまり決して人間の知能を絶対として捉えず相対的なものとして見るその姿勢が、逆にさまざまに多様な知性を発想する自由度をもたらしている。

アシモフもクラークも、「ファウンデーション」や「中央コンピュータ」のように、人工知能が人間を囲う環境そのものになって、人類を庇護する、あるいは前へ進める役割を持つと期待している。人工知能の進化がどこかで分岐し、ロボットのように人型の単体として発展する道もあれば、環境全体の知能となっていく道もある。前者はエージェントAI、キャラクターAIであり、後者はメタAI、スパーシャルAIである。それはちょうど動物と植物の対比と似ているかもしれない。キャラクターAIは動物のように動き回るための知能である。一方で、スパーシャルAIは植物のようにその場にセンサー網や情報網の根を張り、空間とそこの流れる時間を支配していく知能である。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房、2009 年、原作 1949 年)

6.監視型メタAI
~「ビッグ・ブラザー」と「マザーコンピュータ」~

ビッグ・ブラザーはジョージ・オーウェルが 1949 年に発表した『一九八四年』(早川書房、2009 年、原作1949 年)に登場する、独裁的なシステムの名前である。「Big Brother is watching you」という標語のように、常に人々が支配する党のシステム「テレスクリーン」によって監視された社会が描かれている。ビッグ・ブラザーは必ずしもコンピュータやAIというわけではなく、伝説的な人物とされているが定かではない。このあいまいな何かに支配されている、という描き方が、本書をSFとも、社会風刺小説とも言える位置に押し上げている。そして、「ビッグ・ブラザー」という言葉は、この『一九八四』以来、社会を抑圧的に支配・監視する存在として、一般的な単語となっていった。

都市全体を統べる人工知能、世界全体を統べる人工知能を考えるときに、女性的なイメージや、男性的なイメージをSFのなかで用いることが多い。海外では「ビッグ・ブラザー」という言葉を専制や独裁への批判を込めて用いることが多く、日本では、おそらく和製英語である「マザーコンピュータ」という言葉を用いる。ビッグ・ブラザーとマザーコンピュータは、前者が抑圧的・威圧的な支配のイメージを持ち、後者は包み込むように人々を保護するイメージを持つ。

西欧では、専制的、威圧的な政治について言及するときに、「ビッグ・ブラザーのような……」という表現が用いられる。『一九八四』は世界的に不動の文学的地位を確立しており、本書を読んでいることは教養の部類に入るのである。一方「マザーコンピュータ」という言葉は、あまり西欧では使われておらず、日本において最もよく使われている。

マザーコンピュータは前述した『地球へ…』だけではなく、手塚治虫『火の鳥:未来編』(1967年、COM)では電子頭脳「ハレルヤ」と聖母「ダニューバー」という「マザーコンピュータ」が出てくる。「マザーコンピュータ」という言葉は使われていないが、聖母という言葉をわざわざつけたのは、女性的なイメージということだろう。電子頭脳「ハレルヤ」も女性的なイメージのもとに描かれており、司令官ロックの私生活に干渉する。電子頭脳「ハレルヤ」と聖母「ダニューバー」の喧嘩によって人類は滅びてしまう。また映画『マトリックス』(ワーナー・ブラザース、1999 年)は「MATRIX」が支配する電脳世界に人類が閉じ込められているという設定であり、「MATRIX」はラテン語の「mater」(母)から派生した語である。

マザーコンピュータはゲームにも頻繁に登場する。「グラディウス」(KONAMI、1985 年)の
ラスボスは脳型の「マザーコンピュータ」である。

「ラグランジュ L-2」(コムパック、1985 年)はマザーコンピュータ「ZERA」が暴走して人に危害を加えるというバックグラウンドストーリーとなっている。「メトロイド」(任天堂、1986年)には「マザーブレイン」という機械生命体のボスが出現する。「ファンタシースターⅡ」(セガ、1989 年)は、マザーコンピュータ「マザーブレイン」が管理する世界が舞台となっている。「スーパースターソルジャー」(ハドソン、1990 年)は人工頭脳「マザーブレイン」を敵とする世界観である。「ファンタシースターユニバース」(セガ、2006 年)にも「マザーブレイン」が登場する。 また「バトルネットワーク ロックマンエグゼ2」(カプコン、2001 年)では「マザーコンピュータ」というステージが存在して暗号を解く。「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」「ソニックバトル」「ソニックライダーズ」(セガ、1991、2003、2006年)でもステージに「マザーコンピュータ」が出現する。「ブリンクス・ザ・タイムスイーパー」(マイクロソフト、2002年) の世界は「マザーコンピュータ」が支配する世界である。「ペルソナ Q2」(アトラス、2018 年)においても「マザーコンピュータ」というボスキャラクターが登場する。このように日本のゲームでは数多く「マザーコンピュータ」をその世界観の中に用いている。一方で、海外のゲームでは「マザーコンピュータ」という言葉はほとんど見られない。

もちろん、どちらにも属さない中性的な支配コンピュータ、支配AIの描かれ方もある。『ターミネーター』(ワーナー・ブラザース、1984 年)におけるスカイネットは自我を持ち未来の社会を支配する人工知能として描かれている。

このようにビッグ・ブラザーもマザーコンピュータも人を保護しようとし、監視し、管理する。保護、監視、管理は紙一重であり、ちょっとした匙加減でユートピアにもディストピアにも成り得る。そのような多様な可能性が、このふたつの言葉には含まれている。オーウェルが「ビッグ・ブラザー」を記述したときには、全体主義と監視社会への危惧と、そこに何らかのテクノロジーが介在することの恐怖を感じていたはずである。「ビッグ・ブラザー」という言葉は、50 年代から現在に至るまで、リアリティを増し続けている言葉であり、現代では特に人工知能と共に語られることが多くなっている。そういった意味で、「ビッグ・ブラザー」は人工知能の応用の負の側面を表現する言葉として益々重みを増していくことだろう。「ビッグ・ブラザー」に対抗する、人間のためにより良い自由と尊厳を持つ世界を試行する言葉は「マザーコンピュータ」となれば、よい対比であるが、実際、「マザーコンピュータ」も悪役となることが多い。私は「メタAI」という言葉が、人類を包みつつ、自由で安全な社会を作る人工知能の定義となれば良いと願う。

『ソラリス』 (早川書房、2015 年)

7. 惑星型メタAI
~ソラリスと圧倒的なスケールの知性たち~

スタニスワフ・レム 『ソラリス』(早川書房、2015 年、原作 1961 年)は、多様な解釈が可能な卓越した物語であるが、ひとつの解釈としては、人間の記憶やトラウマを理解しようとする惑星全体を覆う海のような生物と人間の交流を描いた物語である。ソラリスは人間の奥底にあるイメージを具現化してその人の前に差し出す。それがソラリスの海によってファーストコンタクト・コミュニケーションにおけるアクセスなのだが、人間はトラウマを刺激されて精神が滅入ってしまう。ソラリスは邪気があるのか、無邪気なのかはわからない。最初の握手のような挨拶ですら、人は深く苦しめられる。この物語は生き物同士の断絶と接続を描いている。ソラリスの海は決して人工知能ではないが、海以外ない惑星が、文明の果てに人工知能と生物がひとつに融合した海だと考えるとどうだろうか。『新世紀エヴァンゲリオン』(ガイナックス、1995年)のなかであり得たかもしれない「人類が L.C.L. のひとつの海となって融合する結末」は、まさに地球がソラリスのようになってしまう未来だろう。また『幼年期の終わり』(早川書房、1971年、原作1952年)は人類が高次の生命にメタモルフォーゼしていくのを異星人から眺めた小説だが、高次に成り損なってしまったらソラリスの海のようになるかもしれない。

『攻殻機動隊』(士郎正宗、講談社、1991 年)では、主人公の草薙素子と人形使い(人工知能)との融合、さらにその先にはネットワークと人間との融合が描かれている。そんな「人=人工知能=ネットワーク」融合体はソラリスの海のように人の内面を探り、最も鮮烈なイメージを人に返すこともあり得るだろう。「人間はいつまでも人間ではない。新しい存在へと変化する」という方向は、SFのラディカルな方向の極みであり、大いなるカタルシスでもある。SFはそのような超絶したメタAIとの出会いを体験させる舞台でもあるのだ。

スタニスワフ・レム「殲滅王物語」(『ロボット物語』収録、早川書房、1982 年)と『攻殻機動隊』(士郎正宗、講談社、1991 年)

同じくスタニスワフ・レムの印象的な短編に「殲滅王物語」(『ロボット物語』収録、早川書房、1982 年、原作 1964 年)がある。この臆病な王は、王位を失うのを恐れて血縁・臣民、全てを滅ぼしてしまう。さらに自分が王座から追われるのを恐れて、王座に自分を物理的に固定し、さらに自分を首都のシステムとつないで、首都そのものになってしまう。敵がいなくなっても毎晩反乱の悪夢に悩まされ、ついには悪夢の連続によってオーバーヒートして炎上してしまう。その炎はずいぶん長く続いた……。国そのものになった王が自らの見る悪夢のなかに沈んでいく、という専制者の陥る罠が見事に描かれている。深見弾氏の名訳から引用すると「そして、大火災の火以外つなぐものはなにもない、何十万もの夢にばらばらにちぎれて潰れてしまったのですーかれはそのごも長いあいだ、本当に長い長いあいだ燃えつづけていました……」。王が抱いた悪夢がいかに深いものであったのか、この最後の描写で印象付けられている。

同じくレムの『地球の平和』(国書刊行会、2021 年、原作 1984 年)は、人工知能が人知れず軍事技術の拡大を月面上だけに許された世界の小説である。人工知能は最終的に、すべてのコンピュータ上からソフトウェアを消去する微小兵器を開発していた。この物語の裏にも、月が人間を超えた知性の饗宴場所として設定され、それを畏れる人類の姿が描かれている。

『宇宙戦艦ヤマトⅢ』(東京動画、1980 年)の第 20・21 話では、見る人の生活・習慣によって見えるものが違って見える「惑星ファンタム」が登場する。地球環境とよく似た惑星を探すヤマトクルーにはその惑星が地球に見えて、ガミラス星人はガミラス星そっくりに見える。それは「惑星ファンタム」がコスモ生命体であり、訪れる人にそれぞれに違った幻覚を見せているのである。

このように惑星全体のスケールの知能と人間が出会うことは、人間が構成する自分たちの現実世界のリアリティを壊すものである。そのような主観的世界の破壊はSFが与える最良の解放感のひとつである。

8.人工知能の中で生きる

我々人間は強く生きたいと願っている。同時に自分が強くならなくても、この厳しい環境がより優しくあれば良いと思っている。そのための都市を作り、社会を形成した。メタAIは人間、或いはロボットやドローンなど、AIエージェントを取り囲む環境に根を張る人工知能である。それはある意味、人間を守る人工知能であり、AIエージェントの様々な行動を可能にし、人間とAIエージェントの間の協調社会をもたらす人工知能である。我々は都市に抱かれて生きる。そして、都市が人工知能になるということは、人類は人工知能のなかで生きるということである。

メタAIには以下の4つの種類があることを見てきた。これを年代とサイズで表したものが表1である。

4. マザーコンピュータ型メタAI
5. 都市型メタAI ~アシモフの『ファウンデーション』、クラークの『ダイアスパー』~
6. 監視型メタAI ~「ビック・ブラザー」と「マザーコンピュータ」~
7. 惑星型メタAI ~ソラリスと圧倒的なスケールの知性たち~

まず都市のスケールのメタAIは実に多くの事例を持つ。都市の人工知能というビジョンは、
一貫して SF のなかで描かれてきたテーマである。また『ファウンデーション』や『地球へ…』のように宇宙に進出した人類をまとめ上げる中枢としてのメタAIもある。また『2001 年宇宙の旅』を端緒として、宇宙船そのものが人工知能になった作品の系列も存在する。このようにメタAIの特徴は、その環境と一体となり、そこに根を張る、まるで森や林のような人工知能である。極論すれば、アニミズム的人工知能とさえ言えるだろう。

環境に宿る人工知能というアイデアは、人間をより多機能・高性能に拡張する「人間拡張」
(Human Augmentation)でもある。知的能力とは平たく言えば、時間と空間を支配する能
力である。環境に宿る知能は、一個体の身体周辺の領域を超えて、より広大な時間と空間を支
配する。 表1に見られる様々なメタAIはその様々な人間拡張の願望とも言えるものだ。人の
知能は拡張を望んでいる。人は、より大きな空間、より長い時間を支配できる力を望まずには
いられない。人の身体をより大きな空間や機械に拡張し、より大きな知性へと拡張する、メタ
モルフォーゼする知能の姿を想像し、求めずにはいられない。そして、その欲求はこれらSF作品のなかに明確な軌跡を描いている。


三宅陽一郎|YOUICHIRO MIYAKE
ゲームAI開発者。工学博士。東京大学特任教授・立教大学特任教授・九州大学客員教授。京都大学で数学を専攻、大阪大学(物理学修士)、東京大学工学系研究科博士課程を経て、2004年よりデジタルゲームにおける人工知能の開発・研究に従事。国際ゲーム開発者協会日本ゲームAI専門部会(チェア)、日本デジタルゲーム学会理事、人工知能学会編集委員会副編集委員長。

Edited by Tomonari Cotani
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