地域の魅力を体感する醍醐味(2)--学生の視点から地方を学ぶ:後編

 前編では、徳島県海陽町での1次産業のインターンシップに参加し、2期続けて現地を訪れた学生2名に、その時の事などを話してもらった。今回の後編では、この実習で感じたことや学んだことなどを聞いた。

 2泊3日の現地実習では、各チームが見聞きしてきたことを元に人口推移や産業別人口などのデータを用いて、海陽町の現在の特徴、要するに都市部の学生にとって興味深かったことなどを纏めて、実習の成果報告を作成した。相互のチームで情報交換した結果、この町の農業と漁業は相互に別々に営まれているわけではなく、町を流れる海部川が大きな役割を果たしていることに注目した。九尾集落の周囲にある山岳地帯から流れ出る水は、海部川となって中山間部を潤しながら、平野部を通り漁港のある海にまで流れ込んでいる。その川が運ぶ森のミネラルなど豊かな養分が、ひいては豊かな漁場を作り上げているということに、都市部の学生たちは少なからず感動したのだ。まさに、「森は海の恋人」ではないか。

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 実は海部川の上流には、「轟の滝」という滝を中心に多くの滝が点在し、これらは「轟九十九滝」と総称されている。その中心には、「水波女命」という水を司る神を御祭神とする轟神社がある。元々海部の地にあった林業や水産業、農業などの産業は、水に恩恵を受けることもあり、地域の人々によって厚い崇敬を集めてきたのである。毎年秋には轟神社や轟九十九滝で例大祭が催されるが、そこでは地域の山の民と海の民が集い、400年以上もの歴史を誇るとのことだった。当時の漁協長からは、そうした山の祭事を重要なものと考えているとの説明もあった。

 学生達はこうした川を軸とした産業の繋がりが、この海陽町の中で完結して循環しているという点に着目し、この土地を端的に表す言葉として「一次産業の箱庭」と名付けた。なかなか他の地域では見られないような、それこそ大きなビオトープのような産業の繋がりが、非常に興味深かったのである。しかし、現地の人々には余りピンと来てはいないようで、報告会の反応は、それほど厚いものではなかった。こうしたところにも、地方と都市の住民の価値観の違いのようなものを感じた。正直に言えば、2年間現地では学生達に対して二言目には嫁に来いという言葉が掛けられて、閉口したのも正直なところである。「出会ったばかりで殆ど知らないのに、結婚するわけがない」とは、その当の学生の言葉である。

 現地実習を終えて帰京した学生たちは日常生活に戻り、卒業研究に入るが、特に海陽町の経験を持つ学生の大半が、地方や一次産業に関する卒論を執筆し卒業した。再び前述の学生2名に、卒業研究と卒業後のことについて尋ねた。

◆◆◆

――それぞれの卒業研究の内容を簡単に説明してください。なぜそのテーマを選んだのか、特に地方での経験がどのように反映しているか、知りたいです。

藤沢:私は「一次産業の衰退とその未来-サスティナブル・シーフードの可能性-」というタイトルで、海陽町での経験を元に特に漁業の現状と抱えている課題にフォーカスしました。漁業の体験は、たくさん新鮮な魚も食べられたし本当に楽しかったのですが、ある漁師の方が仰っていた「自分の息子には漁業を継がせたくない」という言葉はとても衝撃的でした。当時、漁師の方の年収は約150万円程度と聞き、漁で使う体力や技量が現在の収入には見合わないということから、後継者不足は仕方ないのかもしれないとも思いました。その一方で、漁港近くにある加工場で魚の低価格化を食い止めるために、魚を三枚におろして冷凍フライなどに加工し付加価値を付けて販売するという、漁業の六次産業化という新しい動きが確実にあることも知りました。

 こうした経験から、卒論では漁業が衰退してしまった背景として、漁業の生産性が低いこと、農業に比べて生産管理が難しいという二点に着目し、特に自然資源に関しては世界的な潮流である持続可能性を意識した、漁業の可能性について提案しました。当時は、東京オリンピック・パラリンピックが、日本の漁業を再生する切っ掛けと言われていましたが、その後のこの国のインバウンド需要を見る限り、あながち間違えてはいなかったと思っています。

 卒論に関して本音を言えば、私はごくごく普通の学生生活を送って来たので特に心惹かれたものとか、知的関心を抱いたものは、海陽町での漁業実習以外には、余り見当たりませんでした。論文で取り上げたサスティナブル・シーフードの概念は理念的にはわかるのですが、実際に現地に行って漁業の現場に出てみることで、わかったことがたくさんあります。漁業の環境的な課題や気候変動の影響、経済的な側面から見た漁業の厳しい状況、そして地域社会における漁業衰退の影響などが実感として理解できたのは、大きな収穫でした。

菅野:私の卒論は、「限界集落に行ってみた」という、今考えると若干あざといタイトルを付けました。サブタイトルが、「限界集落論に関する実践的批判と提言」という堅苦しいものですから、特に九尾に行った経験と現地でのリサーチを元にしている実証性を含んだものなので、こうしたタイトルにしたわけです。

 大野晃先生の「限界集落論」と増田寛也先生の「増田レポート」を元に、こうした限界集落という考え方はなぜ成立したのか、その背景とその内容を検証していくといった内容です。言うまでもなくその切っ掛けとなったのは、実際の限界集落である海陽町久尾での経験です。

 元々限界集落の概念は1990年前後に提起されたものでしたが、大野先生によれば、このまま放っておけば危機が来るかもしれませんよという、将来のリスクを示す意図のものでした。以降、確実に地方の衰退は進行してきているように思えます。つまり「高齢化の進行→集落の限界化→集落の衰退」という流れですが、実際に九尾に行ってみて地域の衰退や廃村という流れは、必ずしもそんな単純なものじゃないのではと感じたのです。

 集落の方へのヒアリングを通して、地域の盛衰や土地に対する想いを伺った結果として、現状は確かに限界集落と言えるかもしれませんが、そこに至るまでは地域固有の理由が存在するということがわかりました。もちろんその背後には、林業や農業など一次産業の衰退や、高度成長期での社会変化など、様々なマクロな要因の影響もあります。

 久尾地区に限らず、地域にはその地域を成立させるコアとなる基幹産業があります。農村とか漁村といった呼び方は、まさにその基幹産業を示しています。さらに地域には、基幹産業から派生する関連産業がありますが、その他にその産業の従事者を支える、生活支援産業が存在します。流通や販売など生活必需品を担う産業や、建設や教育などの産業が含まれます。これらのサイクルが動くことで、地域の経済が成り立っているわけです。久尾は農業の町という名目で、私たちが実習に行ったわけでしたが、どう見ても農業の地域には見えませんでした。棚田では収益を上げることは出来ないはずですから。

 久尾は限界集落とは言えど、かつては多くの住民がいたそうで、最盛期は終戦前後だったようです。植林と木炭製造のために、他町村から多数の労働者が入って村の人口も増加し、現金収入も多く、各家庭とも裕福な生活 ができて活気に満ちていたそうです。新築家屋が増加し、多くの家が瓦屋根に変わったのもこの頃です。そう言えば、農村固有の藁葺き屋根が見当たらないので、なおさら農業の地域には見えなかったのだと思います。

 結局、地誌や様々な統計資料を基に導き出した結論としては、この地域の基幹産業は元来林業だったのですが、エネルギー革命などの社会の変化によって林業や木炭製造が衰退。雇用の減少もあって、若い世代が職を求めて都市部に流出し、結果として統治に残った世代が高齢化し、限界集落化したというのがここまでの流れです。

 ではなぜ廃村にならずに限界化して生き残ったかと言えば、林業は木材を収穫までに長い年月を要するので、その土地で食料や財源を確保するために生活必需産業として農業が付随することが普通です。林業が衰退しても集落が生き残れたのは、この生活必需産業の農業があったからだと結論付けました。農業は林業と比べて、六次産業化しやすいことなども、林業が衰退して農業が現在の限界集落の基幹産業となった理由であると推定したのです。

 ただ林業だったころの地域の記録や記憶は、住民の方からは引き出せず、おそらく忘れているか、あるいは大したことではないと思っているかなのですが、卒論では、仮説の証明までには至りませんでした。こうした事情は久尾地区だけでなく、生き残って来た限界集落の特徴じゃないかと考えています。時代の影響を受けながらも、限界集落は今も存在しているわけです。つまり生き残って来た集落であり、その前に廃村になってしまった地域の方が、遥かにたくさんあるはずです。人々の集落に住み続けたいという意志は、衰退産業や高齢化に負けないくらい強いもので、それを肌で感じることができました。

――最後に、2年連続で海陽町に実習に行った結果、地方の見方や印象は変わりましたか。特に社会人になってみて、地方に関して何か思うことなどあったら聞かせてください。

藤沢:予想されていたことですが、漁業コミュニティは、地元の人たちが強く繋がって協力し合っており、その中での人間関係や温かさは、新鮮に感じられました。漁業のインターンを通じて地方の魅力や独自性に触れ、地方への理解が深まったのは間違いない話ですが、その分だけ産業が抱えている問題は気になります。当時は、徳島県内の沿海漁業協同組合(JF)は37団体でしたが、インターン先の鞆浦漁協が隣接する浅川漁協と2023年1月に合併したニュースがありました。浅川漁協は組合員や水揚げ高が直近10年間で半減していて、比較的経営が安定している鞆浦漁協が吸収したそうです。インターンに伺ったのは2015、6年でしたが、そこからいくつかの漁協が合併などで姿を消し、県内の漁協は既に30団体になっているそうです。徳島県は太平洋に面しており、他の地域の漁協よりも漁業資源が豊かだとは思うのですが、それでも漁協の減少が起こっているため、日本全国ではより深刻な状況なのではと危惧しています。

 航空会社社員として働くうえでは、地方との関りは常に持っているので、地方の魅力と課題を新たな視点から捉えていると思っています。パンデミック以降、航空会社も様々な事業やサービス形態を見直しており、地域密着型のサービスや地方振興プロジェクトの話も耳にすることがあります。航空会社が地域社会と連携し、相互に利益を享受できるような結びつきを生み出すような活動ができたらと思っています。

 地方で学んだ経験を常に意識している訳ではありませんが、地方と都市部の両方に対する理解を深めるといった経験は、仕事をする上で決して無駄にはなっていないでしょう。

菅野私はこの場所を訪れてから、ニュースで「消滅都市」や「地域活性化」、「限界集落」といった言葉に関心を寄せるようになりました。それまでは、こうした地域の持続といった問題は、シティガール(笑)の私には無関係と思っていました。おそらく殆どの都市部で暮らす人々は、このように考えることが多いと思います。しかし実際には、地方の人口減少は都市部の人口増加と密接に関係しています。さらに都市部でも、団地やニュータウンなど、都市型の限界集落とも言うべき地域が存在しており、決して無関係でも他人事でもありません。

 私は現在、情報通信企業でB2B系の部署にいます。都市部のテクノロジーの進化やインフラ整備などを目の当たりにしていますが、時々地方と都市部の間でのデジタル格差を考えることもあります。実際、当時の九尾地区には、携帯電話の回線が通っていませんでした。その結果でもあるとは思いますが、集落の抱える深刻な高齢化によって、人とは逆に野生動物の個体数が増え、かつ狩人の引退も伴って、人と動物のバランスが崩れて農作物が荒らされるなどの被害も多発しているそうです。その半面、交通の便が悪いために人の手が加えられず久尾にしか生存しない種類の花や鳥などが生息していて、昔のままの自然が残っているという点もあるそうです。

 集落へは県道しか道路が存在しないため、大雨や災害時には倒木で1週間以上集落が孤立してしまうこともあるそうです。道路の補修に年間で数千万円近くの費用が掛かるということで、ある住民の方が「この集落がなかったら手間もお金もかからないのかもしれない」と言うのを聞いて、非常に心が痛みました。

 私の勤務する情報通信企業は、ユニバーサルサービス、すなわちどういった人でも分け隔てなく情報技術の恩恵を受けられることが事業の基本です。都市部で暮らしていると、自分の身の回りが全てのように思ってしまうこともありますが、日本には久尾のような地域もあり、具体的にその場所で過ごした経験を持つのは、働くうえでも重要なマインドセットともなっているように思っています。

◆◆◆

地方とはどこのことを指すのか?

 5期に渡る徳島県海陽町、特に限界集落で現地調査の経験で、相当いろいろなことが分かって来た。現地の住民はその地域のかつての姿などには必ずしも深い興味や関心を持っているわけではないし、記憶も薄れている場合も多い。

 実は海陽町の九尾地区は、かつて集落で起こった火事が原因で、集落の公式な記録が消失してしまったという事情がある。そのため、集落を離れた元住民が保有していた個人写真によって、かつての姿を見ることができたし、それによって住民の記憶を蘇らせたというもの正直なところだ。

 以下の写真は、元住民の方に提供してもらった、地区の祭礼時の餅撒きの様子である。やはり年代は不詳であるが、おそらく昭和30年代初頭頃のもので、見る限り子供を含め、多くの人々が写っている。同じ場所を2016年に筆者が写したものも併記するが、周囲の様子は大して変わっていないし、同じような掲示板があるのも驚きだが、人の姿だけが消えてしまったということである。

上野揚子氏提供
上野揚子氏提供
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 ここまで述べてきたように、地域外の人間が地方と関係を持つにあたっては、その地域がなぜ生まれたのか、どう成長してきたのか、衰退しているならばなぜそういったことが起こったのか、まずはそれを客観化することから始める必要があるように思っている。

 限界集落や過疎といった言葉で一般化するのではなく、個々の地域の背景や事情、そして住民の思いなどはどの地域にもあるはずであり、その地域が抱える課題や魅力という、地方創生の文脈ではしばしば強調されることではなく、それがどこであっても人が暮らす土地だという前提で、理解することが先決だろう。

 先入観や一般化を排除し、個別の地域に焦点を当てることで、その土地の独自性や可能性を見いだせるが、そのためにはその地域の歴史や文化、産業の発展過程などを知る必要がある。時には、住民との対話を通じてそれらの記憶を引き出すことも重要だろう。

 徳島県海陽町での様々な経験と調査の後、我々はこの国の過疎が予想以上に進行していることを目の当たりにした。地方の課題は静かに都市部、首都圏にも押し寄せてきている。この後の記事では、首都圏の近郊にある、地方から見ればほぼ東京圏とみなされる地域を対象に、地域の記憶の発掘を展開している茨城県利根町と、東京から80キロ圏内にある近郊都市での試みについて述べていく。

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