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認知症の両親とロボット──つながりを取り戻す、新世代のソーシャルロボット開発者たち

退屈な介護ロボットや子犬の目をしたアザラシのことは忘れよう。両親が病気になったとき、わたしは新世代のロボット工学者に、そして彼女たちのつくる、光って話すかわいい作品たちに目を向けた。
認知症の両親とロボット──つながりを取り戻す、新世代のソーシャルロボット開発者たち
PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

2020年、母が医師によって正式に認知症と診断されたとき、主治医の老年精神科医はわたしに、効果的な治療法は存在しないと告げた。できることは、最後の日が訪れるまで、身体的に、精神的に、そして社会的に彼女と関わり続けることだ、と。はい、はい。わかっています。医師はわたしに、医学にできることは何もないと言った。母の運命は、わたしたち家族の手に託されたのだ。

わたしたち姉妹は父も認知症だと気づいていた。父は衝動的で怒りっぽくなっていたし、短期記憶も劣化していた。医師による診断を受ける必要もなかった。母は認知症。父も認知症。そして、わたしたち家族は自分たちの力でこの旅を乗り越えなければならない。

わたしはたくさんのアドバイス本を買い、ウェビナーに何時間も参加し、ソーシャルワーカーにも相談した。得られた情報は基本的なことばかりだった。食、転倒防止、安全、安全、また安全。誰もが暗い口調で話した。認知症は絶望的だと言った。最悪の運命。ブラックホールが自我をむしばんでいく、と。

そうしたことを、本で読み、人から繰り返し聞いたが、わたしが実際に見たものはまったく違っていた。確かに、父も母も判断力や記憶をなくしつつあった。でも別の意味では、自分を保ち続けていた。母はいまだに新聞を読んでは、余白に「ばかみたい!」と書き込んでいるし、父はわたしにいつ本を書くつもりか、小遣いはいるかと尋ねてくる。昔笑ったジョークで、いまも笑う。ふたりとも、同じにおいがする。

両親の介護でわたしが重視したのは、身体的な快適さだけでなく、たとえ自我に変化が訪れるとしても、自分を自分として感じ続けてもらうことだった。日々の喜びと意味ある余生を過ごす手伝いをすると誓った。それは医療の問題ではなく、心と精神の問題だ。でもわたし自身、そのためにどうすべきかよくわからなかったし、誰に相談しても、おかしな心配をしていると考えられた。

そんなある日、わたしはロボットをつくる人々に出会った。

人間にパンツをはかせる機械をつくっている業者や、高齢者の行動を監視しては、アレクサのように偉そうに「こんにちは、今日はまだ薬を飲んでいませんよ」などと間違いを「矯正」する電子クレーマー、あるいは高齢者には使いづらいタッチスクリーンを搭載したガジェットの話をしているのではない。そうしたものは役に立たない。どれも醜く、不気味だ。それどころか、ほとんどの場合で本来の役割さえ果たさない。それらはブラックホール思考が生んだ善意の産物でしかない。

わたしが知り合ったロボット工学者たちは、人類学、心理学、デザインなど、人間中心の分野の出身だ。認知症の人々に携わってはいるが、老いによって生じる問題をロボットに解消させようとはしない。人生の終わりに近づいた人々を喜ばせるため、満たすためのテクノロジーを求めている。インディアナ大学ブルーミントン校のセルマ・シャバノヴィッチはわたしが出会ったロボット工学者のひとりだ。彼女は人生により多くの意味をもたらすためにロボットを開発している。また、オランダにあるアイントホーフェン工科大学のレンス・ブランカートは人間同士の絆を強める温かい技術を創造している。彼女たちを通じて、認知症の絶望ループを打ち破ろうとしている草の根活動家にも出会った。

ロボットメイカーの第2世代の代表者セルマ・シャバノヴィッチは、初めてソーシャルロボットの話を聞いたとき、懐疑的だった。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

誰かの身体的な悩みに対処することだけが介護ではない。心の世話も必要だ。認知症の人とそうでない人のニーズはそれほど変わらない。誰もが何かに所属したいと願い、人生の意味や自己実現を求める。もちろん、他者からの尊敬も。父は第二次世界大戦の退役軍人で、かなり短気だ。看護師が子ども扱いするような声で話しかけると、激怒して叫んだり悪態をついたりする。わたしは気まずい思いをするが、父を責める気にもなれない。

ロボットメイカーたちは井戸の底に差す一条の光だ。目指しているハイテクロボットが完成するのはまだ先の未来のことかもしれないが、科学者やエンジニアたちはすでに、ある意味ロボットよりも重要なものを発明した。認知症に対する新たなアプローチだ。科学者やエンジニアたちはこの人間問題に真っ向から取り組み、そこに創造機会を見出し、新しいつながりを、新しい楽しみ方を見つけた。そしてもちろん、すばらしいロボットもつくった。たくさんのロボットを。そうしたロボットを用いて、わたしの頭から離れない「認知症とともに歩むすばらしい人生のあり方」という問いに答えようとしているのだ。

「生きがい」を研究するロボット工学者たち

そのロボットの胴体と手足はずんぐりしていて白い。乳首こそないが、裸の太鼓腹の下に青いブリーフをはいているように見える。大きさは60cmほど。その顔部分にあたる長方形のスクリーンが点る。ふたつの楕円の目とマンガっぽいスマイルが現れた。

「こんにちは! わたしはQT、あなたの友達ロボットです」。この言葉を誰にでも言う。それが仕事だからだ。QTは両手を上げ、喜びを表現する。モーターがうなる。高価そうな音だ。

人間型のソーシャルロボット──わたしたちが求める方法で人間に反応する機械──のことを聞いたことがある人には、QTもなじみがあるように思えるだろう。ソーシャルロボットの失敗の歴史は長い。KuriCozmoAsimoJiboPepper、そのほか高価なくせに期待に応えられなかった金属の友たちよ、安らかに眠れ。だが、QTはそれらとは違う。そもそも、消費者向け製品ではない。マイクロフォン、3Dカメラ、顔認識機能、データ記録機能を備えた研究デバイスだ。シャバノヴィッチのような科学者の研究用にルクセンブルクの企業が製造したもので、彼女はQTを使って「生きがい」の研究をしている。

生きがいには、生きる理由や人生の意味、さらには社会目的や日々の喜びなども含まれる。隣人のために何かをすることも、一週間がんばって働くことも生きがいになりえる。それまでの人生を振り返ることでも、生きがいを感じられることがある。トヨタ研究所から出資を受けるシャバノヴィッチの研究チームはQTを利用して、ロボットを介したどのような社会行動──思い出話、行動計画、特定の話題の会話など──が、生きがいを高めることにつながるかを調査しているのだ。

実際に動いているQTを見るために、わたしはシャバノヴィッチ、そして大学院生のロンジン・スーとともに、大学から3kmほど離れた場所にある小さな認知症介護ホーム「ジルズ・ハウス」へクルマで向かった。学生と研究者でなるシャバノヴィッチのチームは、何年も前からそのホームの住人と関係を結んでいる。その日は9月で、その夏、スーは毎週そのホームを訪れては、ワークショップを開催したり、QTの態度や機能を調整したり、人々のQTに対する反応のデータを集めたりしていた。笑い返す、ジェスチャーを真似る、過去を語る、退屈する、イライラするなど、さまざまな反応が得られた。QTが何をどうすべきかを決めるのは研究者ではない、とシャバノヴィッチは言う。「それは討議的な参加型プロセスであって、より多くの人を会話に参加させることにかかっています」

インディアナ州ブルーミントンにある小さな認知症介護ホーム「ジルズ・ハウス」のリビング空間。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

課題のひとつは、認知症はふたりとして同じ症状がないということだ。認知症には、アルツハイマー、前頭側頭型認知症、レビー小体病など、さまざまな種類があり、それらが時とともに移り変わる。記憶はしっかりしているのに、言葉がうまく出てこない人もいれば、おかしな決断を下す人もいる。時間感覚がおかしくなるという人や、五感が鋭くなる人も多い。怒りっぽくなる人、穏やかになる人、フィルターがなくなって思ったことをそのまま口に出す人もいる(ママ、あなたのことだよ)。

わたしの経験では、認知症で個性が失われることはない。個性が強まったり、ゆがんだりすることはある。病状が進めば、クルマの運転、電子レンジの利用、場合によっては衣服の着替えもできなくなる。新しい習慣や癖も加わる。例えば、わたしの母は以前から自然史に関心が強かった。認知症になってからは、葉や花、あるいは木漏れ日の光と影のパターンに夢中になることが増えた。それらすべての病状段階で役に立つロボットだけが、本当に有益な優れたロボットと呼べるだろう。

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この日、スーは人とロボットのあいだで物語ゲームをやってみる予定だった。最終的には、QTが十分な情報を集めて、患者一人ひとりに特化したかたちでゲームができるようになるだろう。いまのところは、QTの進化する会話機能をテストして、人々がロボットのどの行動や反応を受け入れ、どれに混乱したり気分を害したりするかを見極めることが重要だ。わたしはそのテストの結果を見るのを楽しみにしていたが、厳しい反応を予想してもいた。認知症患者は聴衆としてはとても気難しい。嫌いなことや理解できないことに遭遇したときに、すぐに我慢ができなくなるからだ。

クルマを停めたあと、わたしたちは大聖堂のような天井と高い窓が特徴的な日光に満ちた広い共用スペースに入った。施設長と話していたとき、背後で小柄なスーが白いロボットをのせたカートを押して、肘掛け椅子とふかふかのソファの横を通り過ぎ、横にあった小さな会議室に入っていった。奇妙な光景だが、その午後そこにいた人々はほとんど気に留めなかった。ここの人々にとっては、ロボットは日常なのだ。

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わたしたちも会議室に入って、テーブルに置かれたロボットを取り囲むように半円形に座った。シャバノヴィッチは、スーが技術的な問題を解消し、討論をリードするのをただ見守るつもりのようだ。まもなく、IUのベースボールキャップをかぶったメアリーエレンがはつらつとした様子で部屋に入ってきて、ロボットの向かいに腰掛けた。メアリーエレンはいつもQTと話すのを楽しんできたが、その日は様子が違い、緊張していた。「初期のアルツハイマーで、ときどき勘違いしちゃうの」と謝った。

ロボットは彼女に、タブレットから画像をひとつ選んで物語をつくってくれと頼んだ。メアリーエレンはすぐに受け入れ、こう話した。「女の人、学生さんかしら、秋の森をひとりで散歩しているの」

「おもしろいですね」QTが言った。「そういうことを経験したことがあるのですか?」

「ええ、あるわ」メアリーエレンが答えた。「ブルーミントンのまわりには美しい木々がある」。ロボットは何も言わなかったが、スクリーンで笑顔を浮かべた。QTはタイミングが悪く、話すべき場面で黙り込んだり、余計な場所で口を挟んだりする。ロボットのマナーの悪さを見て、わたしたちはみんな気まずそうに笑った。だがメアリーエレンは気長で、まるで聞き分けの悪い子どもの相手をするかのようにQTに話しかけた。ロボットに悪気がないことを知っているからだ。

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客観的に見れば、この日のロボットと人間の会話は退屈なものだったが、どことなく新鮮さも感じた。部屋にいた誰もが、メアリーエレンを真剣に受け止めた。彼女の沈黙や戸惑いをいつもの症状として無視するのではなく、言動の一つひとつに細心の注意を払っていた。

次にフィルが入ってきた。口ひげをきれいにそろえ、チノパンツをはき、ヴィンテージカーがプリントされた半袖のボタンダウンをきちんと着こなしている。ロボットの正面に座ったフィルはQTと声をそろえて「Take Me Out to the Ball Game(わたしを野球に連れてって)」を歌った。顔はロボットに向けているが、おどけた表情や目配せをする。まわりにいるわたしたちを意識しているのだ。歌が終わると、フィルはスーを、そして部屋にいた女性の全員を、順番にからかった。また違った状況だったら、彼は止めるよう諭されたり、はぐらかされたりするだろう。誰かが別の何かに彼の気をそらそうとするかもしれない。しかしその日、わたしたちはその場で一緒にロボットについて冗談を言い合ったり、ふざけ合ったりした。

QTはぎこちない会話を続け(「わたしはこの歌が大好き。あなたは?」)、フィルは優しさと横柄さが入り交じった答えを返した(「きみは歌がうまいな。どっかに録音してるんだろ?」)。スーがフィルにロボットとの会話をどう感じたか尋ねた。「無に向かって話すのはばかみたいな感じだ」と鋭い口調で答えた。「これが本当の人間じゃないことはわかってる」。そして大げさにロボットに向き直って尋ねた。「きみは……本物じゃないんだろ?」そしてウインクして、大声で笑った。

シャバノヴィッチのもとで研究する大学院生のロンジン・スー。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

フィルはQTを気に入ったのか? 気に入らなかったのか? 彼のどこか謎めいた、それでいてどこか理解できそうな気もする反応を分析するのがチームの仕事だ。わたしたち3人とロボットはその場を引き払って、大学にあるシャバノヴィッチの研究所に戻ることにした。そこにある広い会議室で、チームは情報工学、データサイエンス、コンピュータービジョン、心理学の学生たちと合流する。そしてメアリーエレンの優しさや戸惑い、フィルの喜びといら立ちを分析し、次の課題を選び、QTが次に覚えるべきスキルを決める。

クルマを運転しながら、わたしは考え込んだ。今回のデモセッションは楽しく明るい雰囲気だったが、認知症患者を相手にしたときに一度も感じたことがないような不思議なエネルギーにも満ちていた。通常、認知症患者相手の活動は感傷であふれていて、困難な現実から目を背けて、過去の名残を追体験するものがほとんどだ。しかし、今日は未来の話をした。わたしたちは想像し、新しい関係を築き、まだそれがどんなものになるかはわからないけれど、用途や活用法について考えを出し合った。クリエイティブな時間だった。もっと正確に言えば、生き生きしていた。

ソーシャルロボットの超能力

ブルーミントン大学にあるRハウス・ラボはごく普通の会議室のように見える。白い壁、木製の会議用大テーブル、いくつかのデスクと椅子、壁一面のモニター。しかし、室内はセルマ・シャバノヴィッチが研究を通じて集めてきた物品、つまりロボットとロボットのパーツであふれていた。窓枠のスペースには2体のKeeponがいた。重なり合ったふたつの球体に目とボタンの鼻がついているだけの旧式のロボットだ。書類キャビネットの上では、パロという名のふかふかの白いアザラシが充電していた。口にくわえているピンク色のおしゃぶりが充電プラグだ。部屋の奥のほうでは、ホンダの18年型Haruが、電気スタンドとカニをミックスしたような姿で潜んでいた。テーブルの上では、3体のQT(17年型)が眠っていた。まるで不自然史博物館。シャバノヴィッチが館長だ。

46歳のシャバノヴィッチは背が高くスリムで黒髪、ときどき見せる茶目っ気のあるユーモアが、この奇妙な場所にマッチしている。そしていま、チームがQTの社交性の問題点について解決策を検討しているなか、彼女は部屋の奥で座っていた。学生たちは、QTに人の話をさえぎる癖があることに頭を悩ませていた。それでいいんじゃないの、シャバノヴィッチが言った。「QTは必然的に少しばかり頭が悪いっていうことにしておけば」と示唆する。研究者にとって重要なのは、「愚かさが有害になるポイント」を見極めることだ、と。

彼女にとっては居心地がいいのかもしれないが、動いていない、あるいは眠っているロボットたちで溢れるその部屋は不思議なエネルギーで満ちていた。たくさんの幽霊がいるような感じだ。しかし、それこそがソーシャルロボットの超能力なのだとわたしは気づいた。その本領は力強さでも、スピードでも、精密さでもない。醸し出すムードだ。ロボットたちは人の精神をつかんで離さない。心に入り込んでくる。わたしたちはそれらが物体であることがわかっているのに、それでもまるで生きているかのように反応する。

テクノロジーの批評家で著作家でもあるシェリー・タークルは、ロボットは人の「ダーウィン的ボタン」を押すと表現している。ほかのガジェットとは違って、ロボットは人間の社会的本能を刺激するのだ。もちろんロボットには「ボディがあるという特徴」があるとシャバノヴィッチは説明する。そしてこう付け加えた。「動くこともできますし、何かに注意を向けていると示すことも、わたしたち人間を刺激することもできます」。子どもたちはスクリーンよりもロボットから多くを学び、大人たちはコンピューターよりもロボットのほうを信頼し、犬もロボットの命令に従う。

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シャバノヴィッチはそうした反応に魅了されているという。彼女自身、ロボットに囲まれて生きてきたからだ。両親はどちらもエンジニアで、父親は産業用ロボット関連の仕事をしていた。当時、ソーシャルロボットはフィクションの世界にしか存在しなかった。父親が扱う機械は重工業用の本格的なメカだった。1987年の夏、彼女が9歳だったころ、家族は横浜にいた。一人っ子の彼女は頻繁に仕事場についていき、ラボで本を読んで時間をつぶした。彼女が知った日本の空想ロボットはどれも心優しくて頼りになった。ターミネーターのような敵ではなく、鉄腕アトムのような味方だった。なぜ、ある文化における未来のロボットは優しくてかわいく、ある文化においては人間の凶悪な敵なのだろう。彼女は90年代後半に大学で、そんなことばかりを考えていた。

QTの会話能力をテストする認知症介護ホーム「ジルズ・ハウス」の住人。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

幼いシャバノヴィッチは両親の会議にも立ち会うことがあった。そこで、人間の言葉で人間と対話するようにデザインされた機械、つまりソーシャルロボットの話を聞いた。おかしな話だと思った。産業用ロボットは組立ラインで危険な作業を行なう。魅力的ではないし、触れ合う対象でもない。「とても興味を覚えました。それをどう機能させるつもりなんだろうって」と彼女は言う。

人間と機械のあいだに芽生えつつある新たな関係について、もっと理解したいと思うようになった。大学院のころ、シャバノヴィッチはソーシャルロボット工学の分野を開拓している人々のもとを訪れ、その仕事を観察した。05年には、日本の国立産業技術総合研究所の柴田崇徳と彼が開発したロボットの子アザラシ「パロ」のもとで生活した。その小さな手作りの動物は言葉と接触に鳴き声(実際のアザラシの子の鳴き声がプログラミングされている)で反応して、目を閉じたり、尻尾やひれを動かしたりする。パロは当時、専門家の付き添いなしにラボの外で利用できた数少ないロボットのひとつだった。

この初期段階においても、ターゲットは高齢者だった。研究者が機械を介護ホームへもっていく。シャバノヴィッチはその効果を見て驚いた。「みなさん、ぱっと明るくなって、そのロボットに話しかけ、それまでの人生について語り始めるんです」。当時、そしてその後の柴田の研究によって、かわいいアザラシが生活の質を改善することが証明された。人々は活発になり、ストレスが減り、うつ症状が軽減された。

シャバノヴィッチも人間とロボットの交流という新しい分野に携わることにした。それ以来、金属とプラスチックの塊に対して、人が科学技術的想像力──文化的重圧、恐れ、空想など──をどのように投影するかを研究した。アイザック・アシモフが実験心理学者になったような話だ。

初期の研究で、シャバノヴィッチはパロを介護ホームに連れていき、ロボットが人々をどれほど明るくするかを調査した。はじめは誰もが子アザラシを無視していたが、ひとりがその存在に反応すると、氷が打ち破られ、ムードが変わった。みんな、パロに触れるために集まってきて、パロの声や動きについて話したり、笑ったりした。ロボットが扉を開けた瞬間を、彼女は見た。

10年代、Haruあるいは多機能でデータ収集能力に優れたアンドロイドのNaoなどを利用して、シャバノヴィッチはより多くの種類の人々を創造的なプロセスに引き込む方法を模索した。そのころから、人間とロボットの交流に関する教科書も共著者として執筆し、子どもとロボットと人間の集団のあいだに作用するダイナミクスに関する調査も開始した。

わたしが訪問したとき、シャバノヴィッチのチームはインディアナポリスで開催される認知症アクション連盟の年次集会でQTを初めて一般に披露するための準備をしていた。ほかの脳疾患の学術会議とは違って、この集会では新薬に関するセッションや製薬会社が主催するカクテルパーティなどは行なわれない。もうひとつほかの会議とは違うのは、認知症を患う人が多く参加する点だ。連携を強め知識を共有することが集会の目的なのだが、認知症が恥ずかしいこと、みっともないこととみなされるのにうんざりして、よりよい扱いを受けることを主張し始めた人々の集まりでもある。そこへ行けば、認知症の診断を受け入れるだけでなく、希望をもって立ち向かおうとする人々に会える。

当事者たちの議論に耳を傾ける

インディアナポリスのクラウン・プラザはいわゆる黄金時代に列車の駅として建てられたもので、かつて待合室だった場所が会議場として使われている。タイル張りの廊下はおしゃべりする人々の声が反響していた。今日、ロボットを担当するのはコンピュータービジョン分野で研究するウェスリー・クーだ。だが、ほとんどの人はクーの前に置かれたテーブル上のロボットたちには目もくれずに通り過ぎていった。すると、ダイアナ・ペイガンという女性が小さな白いアザラシのパロに一直線に進んできた。彼女がなでると、パロは尻尾を振り、大きな黒い目でゆっくりと瞬きした。ダイアナはすっかり魅了され、親近感が湧く、と言った。「本物みたい」。QTを指して彼女はそう言った。「これは……機械なのに」

ダイアナの中年息子、ジョン=リチャード・ペイガンがQTに関心を示した。だが、自分は幻覚を起こしやすいので、話すロボットを家に置きたくはないと言う。「箱から声が聞こえたらうっとうしい」と言った。ジョン=リチャードはレビー小体型認知症を患っていて、混乱や注意欠陥などがある。また、本人いわく、テクノロジーに詳しくて、アーリーアダプターでもある。かつては、家庭用コンピューターの先駆者として大量生産されたコモドール64ももっていた。いまは認知症アクション連盟が組織するテクノロジー・ワーキング・グループに参加している。その意味では、ロボット好きでありそうなものだが、基本的に、ロボットが彼のテストに合格することはない。ほとんどの発明家はその点を理解していない、とジョン=リチャードは指摘した。認知症を患う人のためには、あらゆるものが直感的でなければならない。誰かが使い方を説明しなければならないようではだめなのだ。また、認知症患者の収入は一定であるため、価格も手ごろでなければならない。フレキシブルで、個人的なカスタマイズも可能でなければならない。

機嫌が悪いことを察知する、例えば、声のパターンを分析して少し休むように促したり、音楽をかけたりしてくれる機械なら、ジョン=リチャードは気に入るかもしれない。認知症が引き起こす悪夢にうなされている彼に、優しい声で「大丈夫、ひとりじゃないよ」と声をかけてくれるロボットなら。「ぼくがどこにいても、ぼくの声を聞いて気遣ってくれる」と彼は言った。「ぼくのフローに合わせられるそんな機械がほしい」

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年次集会の数日間、人々は認知症にまつわる体験談を共有し、向き合い方に関するヒントを交換し、つらい経験やうれしい時間について話した。まるで、大家族が一堂に会したかのようだった。人々が語るのはブラックホールの話などではなく、損失と発見のほろ苦いミックスだ。ある人は、以前は会計士として働いていたが、いまでは自分の通帳の帳尻を合わせることもできなくなったと話した。だが、写真撮影に夢中になっていて、クリエイティブな生活を送っているそうだ。

講演を行なったシャバノヴィッチは聴衆に向けて、その生活をよりよくするにはホームロボットに何が必要と思うかを尋ねた。そしてパロをなでながら、人々の声に耳を傾ける。会話は否応なく、好き嫌いの方向へと進んでいった。人の言葉を話す動物ロボットは非人間的だ、とある認知症の女性が言った。ほかの人が「そうは思わない」と言ってこう付け加えた。「それで誰かが幸せになるんだったら、他人が文句を言う理由がある?」

認知症を患っている人々が、自ら倫理問題について話し合っているのを聞くと、そうした議論は最初からこうした人々主導のもとで行なわれるべきだと気づく。人生はもちろんのこと、自己実現や自己定義をする権利も有している人々によって、何千何万回と議論されるべきだ。

わたしが話したロボット工学者の全員が、メリーランド大学の教授として人間とコンピューターの関係を研究しているアマンダ・ラザールの書いた論文の影響力を指摘する。ラザールは17年に、人間とコンピューターの相互作用の研究は、認知症と精神に関する新しい考え方から多くを学べると指摘した。ルネ・デカルト以降、人間の認知は推論する能力と話す能力と記憶する能力によって定義されてきた。ラザールは、この定義では認知症患者の多くが除外されてしまうだけでなく、コンピューターとロボットの可能性に関する人間の想像力まで制限してしまうと主張している。

ここ数十年のあいだにラザールは、認知学者は心と体のつながり、知覚体験、感情など、認知症患者が失うことなく、それどころかときには鋭敏になることもある要素を人間の能力とみなし、研究するようになった。それにともない、いつかわたしたちのビジョンも拡大し、テクノロジーを純粋な認知補助としてではなく、もっと包括的な精神機能の強化とみなすようになるかもしれないと、彼女は示唆する。

インディアナ大学のシャバノヴィッチの会議室はまるでロボットの動物園だ。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

ほかの学者に向けたラザールのその言葉は、わたしの頭のなかで響いた。わたしの両親は何も思い出せない。冗談を言い、わたしの服や髪の細かい部分を指摘し、強い意見でわたしを驚かせながら、いまを生き生きと楽しんでいる。両親とも、最近になってカルフォルニア郊外の渋滞に興味を示し始めた。怯えているのか驚いているのか、「クルマがたくさん!」と母がわたしに、父が母に言う。記憶や論理的な思考力がなくなっても、ふたりはわたしに、人の脳には想像力や創造力が生き続けることを教えてくれる。「ウールの水着みたいだ」。ある晩、父が突然自分の顔を指さして言った。口ひげが伸びてチクチクすると言いたかったのだ。わたしがそれに気づくまでしばらく時間がかかった。

両親はQTを扱えないだろうし、QTのにぎやかな質問に答えることもできないだろう。生きがいプロジェクトは、言語能力が損なわれつつある人を対象にしていない。しかし、そうした人々を想定したプロジェクトも存在すると、ラザールがZoom経由で教えてくれた。オランダとベルギー、そして英国で、ロボット開発の奇妙な波が始まっていて、重度に進行した認知症の未知の世界に挑み、楽しみや喜びの可能性を探りながら、魂のためのロボットを創造している。

「人と人のあいだの温かさに貢献」

ふたつの白い塊が並んでいた。どちらもカボチャのような形と大きさだ。およそ10分おきにその球体はカエルやコオロギのように鳴いたり、光を発したりしている。そうやって注目を集めようとする。ひとつを手に取ると、なでたり、たたいたり、振ったりに応じて、さまざまな音や光で反応する。「スプリング」モードに設定されているときになでると、その球体は小鳥のようにさえずり、白からピンクに色を変える。ふたつ目の球体を無視し続けると、それはやきもちを焼き、赤くなる。そのタイミングでほかの人がふたつ目を手に取ると、両方の球体が同じ光と音を発し、一緒に遊ぼうと促す。

その球体はSAMと呼ばれている。「つながりを促す」という本質を突き詰めた、2体で1組のソーシャルロボットだ。SAMはオランダ・アイントホーフェン大学の認知症技術専門センターで生まれた異世界っぽい創造物のひとつだ。レンス・ブランカートと彼の同僚たちはSAMを、そしてほかの作品も、ロボットとは呼ばない。ウォームテクノロジー(温かい技術)と呼ぶ。「われわれは人と人のあいだの温かさに貢献したいと願っています」とブランカートは言う。そのためにより多くの人が使えるガジェットをつくろうとしている。

ブランカートのそれまでの経歴が、そのアプローチにつながったと言える。大学生だったころ、彼は認知障害をもつ人々のために大きくて読みやすいインタラクティブなカレンダーを作成した。ユーザーは、錠剤や電話、食べ物などの絵を特定の時間にクリップで取り付けることで、日々のスケジュールやリマインダーを作成できる。そのプロトタイプを人々に配ったが、結果はさんざんだった。それを車椅子や杖と同じ部類の障害のシンボルとみなしたのだ。ある人はそのカレンダーを「障害者ドングル」と呼んだ。善意から生み出されてはいるが、実際の役には立たない、という意味だ。デザイナーの多くが犯すミスを、ブランカートも犯した。対象となる人々に、何がほしいか尋ねなかったのだ。

この経験を糧に、ブランカートは博士号を取得し、さまざまなステージの認知症を患う人々と協力する方法を探る旅に出た。毎週水曜日の午後、ブランカートと彼の学生たちは地元の認知症患者たちと会合を開く。シャバノヴィッチの共同研究と同じように、ブランカートのパートナーシップもすでに何年も続いている。また彼らは近所の介護ホームでもいくつかのプロジェクトに取り組んでいる。そこに住む人々のジェスチャー、関心、笑い、たとえ話などは、どれも話す言葉と同じぐらい深い意味をもつ。音を発するデバイスの初期プロトタイプを開発していたころ、ある内気な女性が鳥のさえずりに反応して、両手を羽のように拡げた。「少し落ち着かないから、あの小鳥たちのところへ飛んでいくわ」。その女性は微笑んでいた。「楽しい! みんな飛んでるの!」。ほかの人々はハトを放つような身振りをした。

これこそ、ラザールが言うところの、テキストやスワイプではなく、感覚や体験を通じて出会う技術だ。そうした発明はいい意味で、シュールで超現実的なことが多い。英国のカーディフ・メトロポリタン大学でキャシー・トレッダウェイがHUGを開発した。柔らかい布で覆われた機械のことで、言うなれば、人間の形をした重いスカーフのようなものだ。その腕部分を自分の首に回してハグすると、HUGのなかにある「心臓」の鼓動が伝わってくる。言葉を必要としない快適な感覚だ。

わたしの母はときどき、時間を超越しているのではないかと思えるほどいまこの瞬間に集中することがある。わたしの目には、その瞬間は認知症の辛さから彼女を救う救済あるいは恩寵のように見える。だが、実際はどうなのか、わたしにはわからない。そうしたガジェットのどれかを体験すれば、わたしにも彼女の現実の仲間入りができるかもしれない。彼女をわたしの現実に連れ戻そうとする理由はなくなるかもしれない。鼓動を打つスカーフを、光るふたつの球体を試さない理由があるだろうか?

シャバノヴィッチのプロジェクトで大切な写真についてロボットと会話をする認知症患者。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER

アイントホーフェン大学のグループが開発した技術のなかでも最も温かいもののひとつとして、VITAを挙げることができる。ビニールパネルがついたパッチワークのクッションのことだ。あるパッチの上に手を置くとセンサーが反応して、あらかじめセットしておいた聞き慣れた音が聞こえてくる。例えば、雨が降る石畳を散歩する音、喫茶店を彷彿とさせるコーヒーカップやスプーンの当たる音などだ。家族や介護者が、ユーザーの心の響く音を選ぶ。数年にわたる検証を通じて、そのクッションは改良を重ねてきた。現在、ブランカートは製造および販売に向けてパートナーと協議を続けている。

あるデモ映像では、白髪の女性が静かに座って夢想しているように見える。おそらく眠いのだろう。「おはよう」と娘が声をかけるが、女性は反応しない。娘が母の膝にVITAを置き、その手を大きな黄色のパッチにのせると、第二次世界大戦当時のコーラス曲「We’ll Meet Again(また会いましょう)」が聞こえてきた。女性は目が輝き、笑みを浮かべる。そしていっしょに歌い始めた。

このクッションは何の役に立つのだろうか? それが彼女の言語能力を回復させることもなければ、記憶を呼び戻すことも、失った能力を取り戻すこともない。ただ、認知症という薄暗くて見通しのない領域で、母と娘が互いを見つける助けにはなる。

ジルズ・ハウスの住人。

PHOTOGRAPH: KAYLA REEFER
ロボットを通じて人間を知ること

12月、わたしは再びシャバノヴィッチのラボを訪れた。ただし今回は本当に行ったのではなく、ビデオ通話を介してだ。それを実現してくれたのは、kubiというテレプレゼンスロボットだった。そのデバイスは、基本的には可動式のスタンドに設置されたタブレットで、リモートユーザー(今回はわたし)が部屋にいる人々に向けて顔を向けることができる(kubiの名前は日本語の「首」に由来している)。アプリを起動すると、kubiシステムを会議用テーブルに設置してくれたスーの顔が見えた。わたしの周りには、認知症のある人とない人の両方が含まれる集団がいた。みんな、進行中のプロジェクトについて話し合うために、毎月そこに招待されるのだ。今回もQTを評価するのが目的だった。QTが新たなスキルをいくつか披露すると、人々はそのパフォーマンスに対して熱心かつ正確に批判し、基本会話の不手際を指摘した。例えば、誰かが口を閉ざしたとき、ただ一拍置いただけなのか、話すのを止めたのかをQTは理解していない、などだ。

ロボットを通じて、人間について多くを知ることができる。QTのおかげで、わたしは人間の相互作用の多くがちょっとした動きや、ささいなタイミングに左右されることを学んだ。最新の人工知能(AI)と言語モデルを備えていても、QTにはソーシャルゲームをマスターすることはできない。顔では感情を表現し、言葉を理解し、人間の言葉を話し、質問を投げかけ、その答えに対してまた別の質問をする。それでも、わたしがQTを採点するなら、ぎりぎり合格の「可」でしかないだろう。

一方、わたしの両親は会話のニュアンスを苦もなく理解する。母はあまり話さなくなり、世間から遠ざかって思考の世界に浸るようになったが、わたしの感情や意図はすぐに察知する。わたしは、口では嘘を言えても、感情は見破られる。母は気づく。

認知症の専門医でさえ、認知症の人々の考えていることはよくわからないと言う。シャバノヴィッチやブランカートのような人々と出会ったころのわたしは、彼女たちが認知症の人々の人間性をはっきりと理解できている理由がわからなかった。でもいまは、その理由が理解できるような気がする。インタラクティブなテクノロジーを創造するには、どこまでが足りなくて、どこから多過ぎるのか、その判断の基準となるのは何なのかなど、人との付き合い方という意味での人間性を理解しなければならないのだ。そこを正しく見極めれば、つくるロボットはかわいく、有益で、印象的なものになる。そこを間違えれば、ロボットは不気味だ。ロボットメイカーは、認知症の人々に欠けているものに注目しない。何が残っているかを見て、それに集中する。

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認知症に関する予測を見ると気分が重くなる。毎年、認知症にかかる人──両親、友人、愛する人──が増えていく。何百万人もの人が、わたしと同じように助けを求められるだろう。しかし、ロボットメイカーたちが、認知症とその介護は必ずしも、大人用のオムツと衰えと絶望の生活ではないことを教えてくれた。両親の世話は、わたしがこれまで経験してきたなかで最も困難な仕事だ。わたしは何度もつまずき、ふたりの欲求を勘違いし、変化を見落とし続けている。まさに苦役だ。しかし同時に、そんな生活が美しくて楽しいとも思えるし、満足も感じる。いまのところ、両親の生活を改善してくれるようなキラキラした新しい友はまだいない。でも、それでいい。それよりもすばらしいものを見つけたからだ。認知症患者とその介護者は孤独ではないという明るい知らせを。

クリスマスまであと4日。QTが再びジルズ・ハウスにやってきた。サンタ帽と深緑色の前掛けを着て。ChatGPTの力を借りたQTは会話が楽しくなった。数十人の住人とその家族、そしてスタッフに加えて、シャバノヴィッチのチームがそこにいた。シャバノヴィッチの3歳の娘ノラは、かつて幼かったシャバノヴィッチ自身がそうしていたように、母の職場で母の膝に座っている。そして、ロボットを恥ずかしそうに見つめた。

その日の集まりは、実験というよりもクリスマスパーティが目的だった。集会はすぐにフレンドリーな混乱に発展し、あちこちから笑い声が聞こえてきた。みんなで声をそろえて「サンタクロースがやってくる」を歌うと、ロボットが腕をバタバタさせた。フィルがノラに「いないいないばあ」をする。未来が見えた気がした。認知症の人々も普通の人、そして人間のなかに交ざるロボットも、そこではほかの人と同じでただのゲストだった。

※この記事はアリシア・パターソン財団の支援を受けています。

キャト・マクガワン | KAT MCGOWAN
カリフォルニア州バークレーに拠点を置くライター兼エディター

(Originally published on wired.com, translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)

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