生存している人間として初めてゲノム編集を施されたブタの腎臓の移植を受けたことで、リチャード・スレイマンが歴史に名を刻んだのは2024年3月16日のことだった。マサチューセッツ州に住む62歳のスレイマンは、この画期的な手術を受けた病院を4月上旬に退院し、新たな節目を迎えている。大変なのはこれからで、移植された臓器を確実に機能させ続けなければならないのだ。
マサチューセッツ総合病院で4時間にわたる手術を受けたとき、スレイマンは末期の腎臓病を患い、人工透析を受けていた。病院が発表した声明によると、スレイマンは退院できたことについて、人生で「最も幸せな瞬間のひとつ」と表現している。現在は自宅で療養中だ。
「長年にわたってわたしの生活の質に影響してきた人工透析の重荷から解放され、家族や友人、愛する人たちと過ごす時間を再び始められることにわくわくしています」と、スレイマンは声明において語っている。
人間のドナー(臓器提供者)の臓器が不足していることから、研究者たちはブタを臓器の供給源とする研究を進めてきた。実際に過去には、ゲノム編集されたブタの心臓移植を2人の患者が受けている。1人目は2022年1月、2人目は23年9月に手術を受けたが、いずれも2カ月足らずで死亡し、退院して帰宅することはかなわなかった。
マサチューセッツ総合病院の医療チームによると、スレイマンは元気で、新しい腎臓も本来の機能を果たしているという。「彼はとても元気です。今朝も会ったばかりです。満面の笑顔を浮かべていました」と、マサチューセッツ総合病院で腎臓移植メディカルディレクターを務めるレオナルド・V・リエラは、4月5日(米国時間)のインタビューで語っている。スレイマンの手術は、動物から人へ臓器を移植する「異種移植」の今後の可能性を占う重要な試金石になるはずだ。
リエラによると、移植から1週間後、医療チームが拒絶反応の兆候に気づいたという。体の免疫システムがドナーであるブタの臓器を異物として認識し、攻撃を始めていたのだ。医師たちは、ただちにステロイドと免疫システムを抑制する薬を使い、スレイマンを治療することができた。
臓器の拒絶反応にはさまざまなタイプがある。スレイマンが経験したのは、細胞性拒絶反応と呼ばれる最も一般的なものだった。拒絶反応は移植後いつでも起きる可能性があることから、患者はそのリスクを減らすために生涯にわたり免疫抑制剤を服用し続ける必要がある。
退院したとはいえ、スレイマンは週に数回は病院を訪れて診察を受けなければならない。その際には医師が血液や尿を検査し、血圧や心拍数などのバイタルサインを監視する。リエラによると、1カ月を経ても問題なさそうであれば、診察来院の頻度は減るという。
臓器拒絶反応のほかに最も一般的な移植合併症のひとつは、感染症である。医師は免疫抑制剤を処方する際に、バランスを考慮しなければならない。投与量が少なすぎると拒絶反応を引き起こす恐れがあり、多すぎると患者が感染症にかかる可能性があるからだ。免疫抑制剤は強力な薬なので、疲労や吐き気、嘔吐など、さまざまな副作用を引き起こすこともある。
過去のレシピエントとの相違点
ブタの心臓移植を受けた2人のレシピエント(臓器受容者)の死にもかかわらず、マサチューセッツ総合病院のリエラはスレイマンの腎臓移植について楽観的だ。その理由のひとつは、手術当時のスレイマンの健康状態が比較的良好だったことだと、リエラは言う。
スレイマンは人間の腎臓をもらう資格があったが、珍しい血液型だったことから移植を受けるまで6~7年は待たなければならなかった可能性が高い。これに対してブタの心臓移植を受けた2人は病状が重く、人間の臓器を移植するには適格でなかったのだ。
スレイマンの医療チームは、注意深い監視と従来の免疫抑制剤に加えて、カリフォルニア州アーバインのEledon Pharmaceuticalsが開発した治験薬「テゴプルバート」による治療も進めている。テゴプルバートを3週間ごとに点滴投与することで、体内のふたつの重要な免疫細胞であるT細胞とB細胞の間のクロストーク(信号交換)がブロックされ、ドナーの臓器に対する免疫反応を抑制できるからだ。この薬は、ゲノム編集したブタの臓器を移植したサルにも使用されてきた。
「ブタの腎臓を移植してから2週間でこの男性が退院できたのは、かなり奇跡的なことです」と、Eledon Pharmaceuticalsのスティーヴン・ペリン社長兼最高科学責任者は言う。「これほど早くここまで到達できるとは思っていませんでした」
リエラは、ドナーとして臓器を提供したブタに施された69の遺伝子改変が、スレイマンの腎臓の機能維持に役立つことも期待している。ブタの臓器は本来なら人体には適合しない。そこで、ドナーのブタを提供したeGenesisはゲノム編集技術「CRISPR」を使うことで、特定のヒト遺伝子を追加したり、いくつかのブタ遺伝子を除去したり、ヒトのレシピエントに感染する可能性があるブタのゲノムに潜伏するウイルスの不活性化を施したりした。
ドナーのブタはクローン技術を使ってつくられる。まず、ブタのひとつの細胞に編集が加えられ、その細胞を使って胚が形成される。そしてその胚をクローン化して雌ブタの子宮に移植すると、ゲノム編集された子が生まれることになる。
「この組み合わせが、移植した腎臓の生着期間を延ばすための秘策になることを期待しています」と、リエラは言う。
ブタの臓器をヒトの体内で長持ちさせるために必要なゲノム編集の数については、科学者の間でも議論がある。ブタの心臓移植では、10の編集を施したブタがドナーとして使用された。このブタを開発したのは、United Therapeuticsの子会社であるRevivicorだった。
正式な臨床試験を開始へ
今回の移植手術と、以前の心臓移植手術の間には、もうひとつ大きな違いがある。もしスレイマンの腎臓が機能しなくなったとしても、人工透析を再開できるのだとリエラは言う。これに対してブタの心臓のレシピエントには、予備の選択肢がなかったのだ。
リエラによると、たとえブタの臓器が長期的な代替手段にならなくても、スレイマンのように人工透析で何年も苦しむことになる患者にとっては、移植までの期間を埋める救済手段になるかもしれないという。
「未知の部分が多いにもかかわらず、異種移植の候補者を志願する人たちから多くの手紙やメール、メッセージが届いています」と、リエラは言う。「その多くは透析療法にとても苦しんでいて、別の方法を探している人たちです」
そこでマサチューセッツ総合病院の医療チームは、さらに多くの患者でゲノム編集したブタの腎臓移植を実施すべく、正式な臨床試験を開始する予定だ。チームが米食品医薬品局(FDA)から特別な承認を得たのは、1件の異種移植手術のみである。だが、医療チームはさしあたり、スレイマンの健康維持に主な焦点を置いている。
(Originally published on wired.com, edited by Daisuke Takimoto)
※『WIRED』によるゲノム編集技術「CRISPR」の関連記事はこちら。医療の関連記事はこちら。
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