あまりに複雑化し、テクノロジーの進歩もさらに加速していくであろう社会にあって、わたしたち人間の主体的な考えとはいったいどのようなものなのか。そうした問いがより前景化するなかで、「アート」や「アート思考」、「リベラルアーツ」を起点に、学生、ビジネスパーソン、企業、教育機関とアーティストのつながりを後押しするプラットフォームが「マイナビアートスクエア(MYNAVI ART SQUARE/通称:MASQ)」だ。新たなアイデアやアプローチをもたらすアーティストやキュレーター、コレクティブなどの表現者らとともに展示プログラムも開催するほか、キャリア形成に重要なナレッジやスキル、思考をアートから発見していくレクチャープログラムなどが行なわれる。

それに先立って開催されたのが、社会の常識や普段の価値観から離れ、異なる角度から「仕事」を問い直すシンポジウムイベント「アートで考えるラボ会議『はたらくってなんだろう』」だ。

MAGUSクリエイティブディレクターの白鳥啓をモデレーターに、MASQアドバイザーであるメディア情報学研究者のドミニク・チェン、美学者の伊藤亜紗、キュレーター・プロデューサーの山峰潤也を登壇者に迎えた本イベント。マイナビが蓄積した「就活」にまつわるデータ、各登壇者が持ち寄った推薦図書を起点に、仕事と不可分の「評価」、そして評価をするための「数値化」の両義性を問いながら、ウェルビーイングな働き方のヒントを探っていく。

働くことと評価。大量破壊兵器となりうる数値

本イベントは、2023年7月に銀座・歌舞伎座タワー22FにオープンしたMASQと同ビルの29FマイナビPLACEのセミナールームにて開催された。オンライン視聴者を合わせ、約100名程が参加した。

マイナビキャリアリサーチラボが実施した調査「マイナビ 2024年卒 学生就職モニター調査 8月の活動状況」によれば、就職活動を表す漢字として「楽」「学」といったポジティブな表現が上位に挙げられる一方で、「苦」などのネガティブなキーワードや、就活での苦労や失敗を基にしたキーワードが上位にランクインしている。

ドミニクは 「就活にまつわるこうした意識は、自分ではない何者か、あるいは求められている人物像を演じなければならないことによって学生が疲弊してしまう、評価の在り方と密接にかかわっているのではないか」と、早稲田大学で教鞭を執るなかでの自身の感覚を語る。

また山峰は、評価のなかに自身を埋没させていく構図のなかで、企業が社会の課題を解決していく在り方には新たなアイデアによる見直しが迫られていると指摘し、自身の経験則からこのように付け加える。

「さまざまなクライアントと仕事を行なっていると、それぞれの理念やビジョンは近いのだけれども、もっているアセットが異なることがわかってきます。そこで気づくのは、特定の評価軸、あるいは縦構造のなかで生きていると見えないものが、世の中を斜めに動いている自分には見えることがあるということです。組織や社会の閉じられた縦構造のなかでは評価そのものがドグマ化する傾向が強いなかで、こうした斜めの動きが、社会の新たな気づきとなるのかもしれません」

山峰潤也 | JUNYA YAMAMINE
キュレーター・プロデューサー、NYAW代表取締役。東京都写真美術館、水戸芸術館などでのキュレーターを経て、文化/アート関連事業の企画やコンサルティングを行なう。「The world began without the human race and it will end without it.」(国立台湾美術館)や文化庁とサマーソニックの共同プロジェクト「Music Loves Art in Summer Sonic 2022」、森山未來と共同キュレーションした「KOBE Re:Public Art Project」などのキュレーション・プロデュースのほか、雑誌やテレビなどのアート番組や特集を監修。

働くことと評価は常にセットである。そこでの問題を受け、伊藤は評価に用いられる「数値」の使い方によって、仕事と数値の本来の価値と目的が失われてしまうことを指摘する。その例として挙げられたのが、伊藤の推薦図書である『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(著:ジェリー・Z・ミュラー)で取り上げられているケースだ。アメリカの全米共通テストの平均点が各学校長の業績評価基準となっているために、成績の低い生徒にテストを受けさせないといったケースや、体育や美術の授業が減り数学の授業が増えるといったカリキュラムの変化、さらには採点の不正や改ざんといった問題につながってしまっていることが明らかになっている。

「基本的に評価は数値によって測られていくものではありますが、それが評価として本当に妥当なのかをこの本は問うています。数値化が一元的に悪なのではなく、使い方によっては教育や労働が数字のためのものになってしまう。そうすると、結果的に自分の仕事が誰のために、何のためにやっているのかが見えなくなってしまいます」

数値化の弊害と関連してドミニクが挙げたのは『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(著:キャシー・オニール)だ。人間の能力・信用を誤った仕組みで評価するAI・ビッグデータを「数学的大量破壊兵器(Weapons of Math Destruction)」と表現する同著では、ニューヨーク州の小学校に勤務する、生徒からの人望が厚い教師が突如解雇される事例を取り上げている。

「彼の授業を受けた生徒は勉強が好きになるため、生徒や保護者の信頼は厚かった。しかし成績の悪い子が多く集まるために、学校で導入された人事評価を行なうAIは彼を評価しなかった。人間が介在しない評価を校長や人事評価の長が鵜呑みにしてしまった結果、このようなことが起こったのです。数値評価という仕組みをどう実行するか。評価を無批判にAIに託してしまう段階に社会が進んでいるなかで、『評価』をもう一度再定義して、面倒なことをちゃんとやる。これがいま必要なことなのかもしれません」

ドミニク・チェン | DOMINIQUE CHEN
情報学研究者、早稲田大学文学学術院教授博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center[ICC]研究員、ディヴィデュアルを経て、現在は早稲田大学文化構想学部で発酵メディア研究ゼミ主宰。情報技術と生命システムの関係性、ウェルビーイングを専門に研究。著書・共著に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)、『謎床―思考が発酵する編集術』(晶文社)、『ウェルビーイングのつくりかた 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(BNN新社)などがある。

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いま一度、「面倒くさい」が必要だ

数値化だけにとらわれない評価の可能性として伊藤が引き合いに出したのは、神奈川県の港町・真鶴町が1993年に制定したまちづくり条例「美の基準」だ。当時のリゾートマンション開発の波に抗う防波堤としてつくられた同条例は、場所/格づけ/尺度/調和/材料/装飾と芸術/コミュニティ/眺めという8つの観点からまちづくりを定義。そこでは具体的な数値などは示されておらず、文学的とも思える言葉が並んだ抽象的な基準によって構成されている。

「条例をつくった方々は『数字で評価基準を出すなんて、親切過ぎる』と言っているんですね。数値で明示してしまうと、それを守りさえすればよい、という思考になってしまう。あえてわかりにくくすることで、『これはあるべきかたちなのか』といった議論が毎回生まれる。面倒なんだけれども、この議論を生み出すための評価軸が重要なのだと思います」

伊藤亜紗 | ASA ITO
美学者、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授、博士(文学)。著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)などがある。

この「美の基準」の例を受けてドミニクが想起したのは、発酵を生業にする職人たちの言葉だ。ドミニクは発酵文化とテクノロジーの研究を行なうなかで、微生物の活動や外部環境の把握にセンサーなどの技術を活用することの是非を、酒造に携わる職人たちに訊いたことがあるのだそうだ。

「そこでの答えは、使える技術はなんでも使うというものでした。同時に『自分の身体以上のセンサーは世の中に存在しない』と、身体とテクノロジーを二項対立で考えがちな自分の質問を軽々と超えていく答えを、淡々と語ってくれました。客観的なデータに従ってみることと、自分のリアリティを伴った身体的な感覚に従った『やっぱりこっちだろう』という判断が仕事のなかに同居している。センサーでも調べるけれど、その情報が自分の身体に血肉化されていて、測定器と身体が分離してないんですよね」

テクノロジーで、数値に従ったほうが手間も減り、効率的に酒を製造することが可能になる。人々の嗜好や流行に最適化した酒を製造することもより容易になるだろう。しかし、それがもたらす弊害も、さらに容易に想像ができる。

「どの蔵の酒も同じような味になり、結果的に自分たちが100年かけて築いた“うちの蔵の味”が一瞬で消えてしまう。数値だけに依存することは、ものづくりにおいても、まちづくりにおいても、そして仕事においても長期的には自殺行為に等しいのではないかと思うのです」

「測らない」ことの可能性を信じるということは、山峰の言葉を借りるなら「センサーとしての人間、つまり身体の感受性をもう一度信じる」ということだ。山峰は、共通理解のために抽出した計算方法や基準に依存することで単純化され、失われてきたものが多くあると語る。

「都市開発を行なうデベロッパーからの『アートを取り入れて街に文化を取り戻したい』という相談は非常に多いんです。しかし、街に根付いていた文化を経済合理性に基づいて追い出したあとに借り物の文化をそこに入れても、長年培われた固有性のないどこにでもある街になってしまう。そうなってからでは遅いので、体系化・抽出された客観的なデータを使いつつも、経験のなかで獲得された感覚でまとめていくことが重要です」

測らないことのジレンマ

測りえないものを測ろうとすることで社会がゆがめられてしまう。そんな問題がある一方で、「測らないことのジレンマ」も存在する。そこで山峰が推薦図書に挙げたのが『芸術を誰が支えるのか アメリカ文化政策の生態系』(編著:橋本裕介)だ。同著は、アメリカの文化政策の生態系をテーマにしながら、人々や地域の幸福度、社会的循環に寄与する芸術文化のような、測りえないものの価値を論じたものである。一方で、その価値を社会空間のなかで説得していくために、結果的に「測ること」に立ち戻ってしまう難しさも浮き彫りにしている。

「社会益、コモンズ(共有地/共有知)としての芸術の価値を経済社会のなかで見出すためには、やはり『どれくらいの経済効果を生み出すのか』が必要になり、測定しないために測定する、といった状況が生まれます。わたしの仕事のなかでも『見たことがない新しいものをつくってほしい』とよく言われるのですが、見たことがないので効果が測れない、つまり結果的に測れるようにしていくという命題が新たに生まれてしまうのです」

測らないことの難しさ故に、測ることは強力過ぎる道具となる。山峰が以前に会話をしたイギリスのアーティストによれば、助成金を得るために評価軸に最適化された作品が増える危険性があるのだという。アートはさまざまな問いや価値観を浮き彫りにしながら議論を促し、新たなものの見方をつくり出していくことに価値が置かれる。ただ一方で、狭義な現代アートの世界には強固なトレンドがあり、社会に対するカウンターや問題提起がアーティストとして評価を作っていく上での手段になってしまう側面も、アートの世界に身を置くと見えてくるのだと、山峰は言う。

「アートは平等性や民主性を掲げる一方で、苛烈な競争原理が同時に作動しています。さらには、それを超えて社会的メッセージを世の中に放てるようになるためには、ある一定の発言力をもつ必要がある。つまりは特権的なポジションにあるからこそ可能なのだという側面もあるのです。こうしたジレンマや両義性を前提に、『どの座標から放たれている評価軸か』を常に検証し、客観性を持ちながら『測りえないものにある計り知れない価値をどう見つけていくか』がより必要になるでしょう。さもなければ、数値という破壊兵器の運用が目的になり、より社会を良い形で変革していく本質的な目的が失われてしまいます」

数値化の民主性

数値化の危うさと、それをどう乗り越えるかの模索が続いたのち、伊藤からはあえて反論も述べられた。身体から抽出した情報の体系化や数値化は、民主化に不可欠なものでもある。伊藤によれば、 18世紀に啓蒙思想家のドゥニ・ディドロが制作した『百科全書』に記載されていることの多くが、何かの「つくり方」なのだという。特定の領域のプロフェッショナルの知をフィールドワークを通して記述していった本書は、中産階級にとっての知となっていった。

「ここで興味深いのは、18世紀の段階では図版と言葉に限定されていたものが、19世紀になると数値化し始めることです。イギリスでは、さまざまなハウツー本が普及しはじめますが、そこでは技術が数値化されており、今では当たり前の料理のレシピ本などもそうした流れの中から生まれています。イギリス人が世界中の植民地化した地域で自国の料理を、専門家がいなくても知恵を持ち出して食べられるようにノウハウ化されていった背景があり、それは料理だけでなく医療や農業にも見られます」

伊藤は、20代のころに職人のもとで刺繍の修業をした経験をもつ。そこで目にした技術はすでに百科全書に記述されていることを後に知り、200年間変化が起きていなかったのだと実感したという。

「職人の身体のなかに内蔵され、閉じ込められた知を数値化して取り出すことで、誰でもできるようになる。そこには大きな可能性があるわけです。一方で、歴史的に見れば、数値によって知を民主化することが現在のグローバリズムにもつながる考え方の基礎にもなっている。身体に閉じ込めておくこと、開いていくことの意味を両方から考えていく必要があるのだと思います」

「わたし」と「わたしたち」が満たされる、働き方のヒント

こうした評価と数値化にまつわるジレンマや両義性があるなかで、ひとつの解を見つけていくことは非常に困難を極める。だからこそ数値は威力を発揮するのであるが、それでもわたしたちのよりよい働き方、あるいはウェルビーイングな仕事の在り方を諦めないためには何が必要なのか。

これまでのウェルビーイングは、いかに「わたし」が満たされるか、つまり幸福の個別最適にまつわる議論がほとんどで、「わたしたち」を満たすこともいま一度考える必要があると、ドミニクは言う。しかし、「わたし」なき「わたしたち」というのも全体主義的であるし、「わたしたち」なき「わたし」も、非常に個人中心主義的でもある。そうしたなかでも、ドミニクは「わたし」と「わたしたち」の間にあるウェルビーイングを架橋していくためのヒントを、自著『ウェルビーイングのつくりかた 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司との共著)を取り上げながら提示していく。

「本書では、真鶴の『美の基準』にも似て、『ゆらぎ・ゆだね・ゆとり』という問いからアプローチしたウェルビーイングの在り方を探っています。使い方や人や関係性のなかで生まれる変化を許容する状態になっているか(ゆらぎ)、プロダクトや基準、他者などと自分が、適切に委ね合う、あるいは委ね過ぎていない、つまり自律と他律のバランスがとれた状態になっているか(ゆだね)、結果だけではなくプロセスに価値を見いだす状態になっているか(ゆとり)。この『3つの“ゆ”』が揃った状態をいかにつくっていくかが、仕事も含めたウェルビーイングな状態を探る上での補助線として使える、というのが本書の提案です」

同時に、複雑な社会構造や人間関係、個々の人間の文脈に合わせたデザインは不可能であるし、ウェルビーイングを理論化することの矛盾も自覚しているという。統計や数値からわかることは特定の母集団に見られる傾向に過ぎず、現場のリアリティをつぶさに観察するエスノメソドロジカルな探り方も不可欠となる。

「矛盾があるなかでも、問いそのものを諦めた瞬間に正解が必要な世界となっていく。それは端的におもしろくない世界です。まず自分たちで定義したり、つくったりすること。この実験が終わらない状態を生きることが、最も重要なのではないかと思います」

働くことへの意識調査を基に、さまざまな論点からこれからの働き方を縦横無尽に再考していった本イベント。しかし、これはあくまで始まりに過ぎず、MASQは5月24日よりレクチャープログラム「アートをめぐる思考と情報整理のプロセスを学ぶ5日間『わたし⇄社会』を考えるキュレーション型創造ゼミ」を開催する。多岐にわたる領域から参画した講師とともに、自身の興味・関心の分析を通して生活や社会に対する独自のテーマを発見し、「架空の展覧会の企画」というアウトプットとして表現することで、アートをめぐる思考プロセスや情報の咀嚼・整理のプロセスを学ぶ。応募〆切は5月6日。奮ってご参加いただきたい。

『わたし⇄社会』を考えるキュレーション型創造ゼミについて詳しく見る

「『わたし⇄社会』を考えるキュレーション型創造ゼミ」開催概要

タイトル:
アートをめぐる思考と情報整理のプロセスを学ぶ5日間 「わたし⇄社会」を考えるキュレーション型創造ゼミ

場所:
歌舞伎座タワー22F マイナビアートスクエア
または歌舞伎座タワーマイナビPLACE内の会議室(東京都中央区銀座4丁⽬12-15 )

定員:
15名 ※本講座の最少催行人数は10名となります。

受講料:
一般/50,000円、学生/17,000円

講座スケジュール:
2024年5月6日(月)23:59 応募締め切り
5月14日(火) 参加者へのご連絡、決済期間(Peatixページ上での決済となります。)

講座~成果発表までのスケジュール:
第1回:5月24日(金)19:00~21:30(講師:伊藤亜紗、ドミニク・チェン、山峰潤也)
第2回:5月31日(金)19:00~21:30(講師:ドミニク・チェン)
第3回:6月7日(金)19:00~21:30(講師:伊藤亜紗)
第4回:6月14日(金)19:00~21:30(講師:山峰潤也)
第5回:6月21日(金)19:00~21:30(講師:伊藤亜紗、ドミニク・チェン、山峰潤也)
成果発表:9月(場所:マイナビアートスクエア)

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