「京都水盆」から考える、現代的コモンとこれからの都市像:松田法子 連載・『人と地球の共構築に向けて』

わたしたちが都市に住むために欠かせない、自然資本としての「水」。京都という都市において、都市の下部構造としての水インフラはどのように形成されてきたのか。京都府立大学准教授の松田法子による連載『人と地球の共構築に向けて:汀のトラヴェローグ』第4回では、京都水盆の発見・認識の普及や京都の水利用の歴史と現在から、これからの都市像を思考する。
「京都水盆」から考える、現代的コモンとこれからの都市像:松田法子 連載・『人と地球の共構築に向けて』
PHOTOGRAPH: NORIKO MATSUDA

「都市に住む」ための自然資本としての「水」

水から都市を考えることは、都市の底に横たわっている大地の性質と、その上に展開されてきた人々の生活史や生活文化という、マクロとミクロの時空間を横断し、かつ相互に接続させながら、「都市に住む」という行為を成り立たせてきた自然という基盤や自然資本と、その現在を実感する機会になるだろう。

そこにおいて、大地と大気のなかを循環し、すべての人々の生活と具体的な接点をもっている物質が「」である。

水の供給を確保することは、都市の下部構造としてのインフラストラクチャーの中核だ。近現代都市のインフラでは、供給されるものの量、質、安定性、安全性が重視される。しかしその一方では、土地固有の性格によってこそ形づくられてきた、その土地の生活文化にふさわしいインフラもある。

そのインフラのかたちとは、前近代に由来し、また前近代的な文化に接合的なのだろう。それが京都でいえば、井戸や湧き水、滝などの水であり、人工的なものでは高瀬川や堀川など人力による水運のインフラだった。

井戸では、例えば賀茂氏の氏神である下鴨神社の御手洗〔みたらし〕の井戸は、平安京建設以前からの京都盆地における祈りと水の関係を伝えている。加えて、参拝者が献灯を携え、御手洗井から湧き出す流れに素足を浸しながら井戸前の祭壇へと進む御手洗祭は、都市化後の京都において、疫病などに見舞われず無事に夏を越せることを願って長らくおこなわれてもきた。

また、都市交通には水が欠かせなかった。高瀬川や堀川などの水路は、舟がトロッコ、川がレールにあたるもの。南から北へ、平底の舟を人力で引っ張り上げた。交易や商業のための都市インフラも水が担っていたのである。

水は、生きていく上で絶対に欠かせない共有財(Common Goods)だ。そしてその使い方は、生活や生業にさまざまな文化をもたらした。生産や製造にも、大いに関係がある。また現在、水や大気、土などは、経済活動を支える資本のうち、自然資本として注目が高まっているところでもある。

元来、水は誰のものでもない。しかし、土地の管理や所有にひも付いて、その利用可能性は規定されていることが多い。共有財として、都市の成立基盤として、また大地に即した今後の都市像を考えていくエレメントとして水を捉え、その各現場に具体的に触れてみるということは大切だろう。

そんな思いのもと、2023年秋、10数人の学生も一緒に京都の水を巡るリサーチツアーを実施した。このツアーは、2026年から2050年までの25年間に適用される京都市の次のグランドビジョンの立案を見越したラウンドテーブルとリサーチツアー&レクチャーシリーズの一部として企画されたものでもある*1

過去とこれからの都市の文化や経済を考えるにあたっては、それらが発生し、依拠してゆく基盤、つまり大地との関係を、まずはきちんと見ておく必要があるのではないか。

京都の地下には、琵琶湖に匹敵する巨大な水がめがある

平安京時代の地下水位は高く、1m台や2m程度の深さの井戸が一般的だったことが、これまでの発掘結果からわかっている。近世になると深さ4m程度のものが増えるようだが、かつての京都では、かなりどこででも手軽に上水を得ることができた。それは、人口が密集する都市の発達上も重要なことだった。

そして京都の都市(首都)化以降、水は、飲用その他の生活用水としてだけでなく、文化的表現や権威の表象にも使われてきた。平安時代の有力貴族の館は、南庭に大きな池泉を設けた寝殿造りの邸宅などであったわけだが、そうした大きな園池には水を豊富に供給できる立地条件が必要になる。

平安後期、規模の大きな貴族邸宅は平安京の中でも内裏の南東あたりにまとまって立地した。ジオアーケオロジー(地形考古学)を専門とする河角龍典によれば、このあたりは過去に鴨川の流れがつくり出した、水はけがよく固く締まった砂礫地帯で、かつ平安後期には鴨川の河床が平安前期に比べて2mほど低下していたことで洪水の危険性は少なかったこと、さらに微地形を復原すると、天皇や主要な貴族の邸宅は砂礫面に形成されていた浅い谷地形の上に立地したことが判明し、これらの地点では湧水が得られたと考えられるという*2

「京都の地下には、琵琶湖に匹敵する巨大な水がめがある」。京都に住む多くの人が、恐らく一度は耳にしたことがあるフレーズではないかと思う。その「水がめ」は、京都盆地の地下構造の特質ゆえに備えられたものだ。

京都盆地の地下に蓄えられている甚大なその水量を試算し、かつまた地下水をたたえるくぼみの姿を「京都水盆」という呼び名と共にビジュアル化したのは、関西大学環境都市工学部の楠見晴重さんである。

京都水盆の発見と命名は、岩盤力学・地盤工学を専門とする楠見研究室での長年にわたる京都の地下水についての研究、阪神淡路大震災後の京都における都市防災上の緊急調査データのとりまとまり、そして井上勝弘を中心とするNHKスペシャル「京都 千年の水脈」制作班とのやり取りがきっかけだったという。

「京都盆地」はどのように形成されたか

昨秋の「水と都市」リサーチツアー&レクチャーシリーズでは、京都水盆の構造に関する自然科学的な基礎レクチャーをぜひ楠見さんにお願いしたいと思い、お引き受けいただいた。以下は楠見さんの研究成果に導かれながら、わたしの関心や最近の数値情報を加え、記すものである。

阪神淡路大震災のあと、京都市では市街地の地下構造を把握する機運が高まった。市民や文化財の防災の観点から、主に断層の場所を検出するためだった。

京都盆地の活断層として有名なのは、京大農学部のグラウンド横などに高低差をつくりだしている花折断層である。2万5千分1の「花折断層ストリップマップ」(2000年)によると、北山の山中から伸び下り(小浜から続く鯖街道はこの断層沿いが道になったもの)、修学院離宮や詩仙堂など東山北部に分布する名勝地の真下を通過、京大キャンパス東側の吉田山西裾を回り込んで、平安神宮に達している。その他の断層を網羅的に把握するために実施されたのが、1998年から3カ年にわたる地下構造調査だった。

京都盆地の底とは、いまの地表面のほかに、地下に埋もれていて見えない「底」がある。岩盤からなるその底は、東山・北山・西山の地質と連続していて、主に砂岩と粘土が滞積してできた頁岩からなり、約3億〜2億万年前に形成された古生層の岩盤が形づくるものだ。これが京都の「基盤岩」というものである。その基盤岩の起伏、つまり地下の地形が、地表近くに硬い地盤があるところや、堆積物の厚みが大きいところといった、地下構造の違いを生んでいる。

そのような地下構造を、人工的に地面を揺らして実施する反射法探査と、重力異常を測る重力探査*3によって把握した結果が、前述の調査において京都大学の竹村恵二らを中心にまとめられた。

この調査データからは、基盤岩が最も深い位置にあるのは伏見の南で、かつてここにあった広い水面、巨椋池の地下あたりである。豊臣秀吉はかつてこの大池を渡る小倉堤を築き、堤の上には街道と町屋ができたところだ。巨椋池あたりの地下では、いまの地表面から約800m下に岩盤がある。そして、基盤岩は京都盆地の地下で、ラグビーボールを半分に割ったような、お椀型のくぼみをつくっていることがわかった。それは、南北約33㎞、東西約12㎞の大きなくぼみだった。

京都水盆の三次元図(楠見晴重作成・提供)。

基盤岩が形づくるお椀の内部は、長い年月の間に、礫、砂、泥で埋められ、地面が次第に上昇することで京都盆地は形成されてきた。その途中では、東山と西山の裾などにある断層の動きによって盆地周辺の山々が隆起することもあった。いまの京都の地表面も、長期的にみれば大地の絶え間ない活動のなかにある。

盆地を埋めた礫や砂は、水が山々の岩盤を削り、押し流すことで運ばれてきたもので、それが京都盆地の砂礫層をつくっている。そして京都盆地には、もうひとつ別種の地層も積み重なる。それは粘土層で、京都の南側に由来するものだ。京都の南にあるのは大阪。その先にあるのは大阪湾。太古の大阪湾が残していった地層なのである。

反射法探査による京都の地下構造(提供:京都市行財政局防災危機管理室)。

おおむね陸地で、たまに海底だった京都

地球は、氷期と間氷期を繰り返してきた。氷期には陸上の氷が成長するので、地球全体で海面が低下する。間氷期には氷が溶け出すから、海面は上昇する。海面が上昇すれば沿海の陸地は海中に没し、それまでの地面は海底となって、そこに海由来の堆積物が溜まる。

かつての大阪湾の底で形成された地層が重なった部分を、大阪層群という。大阪市内では12の粘土層が検出されるので、大阪の地下には12回もの海面上昇・気候変動の痕跡が記録されていることになる。京都市内では、丸太町通り以南において4つの海成粘土層が検出される。盆地の北部や山裾を除き、のちの京都は少なくとも4度、海になっていたのだ。

『京都 千年の水脈』(日本放送出版協会, 2002年)。

PHOTOGRAPH: NORIKO MATSUDA

有史以降はもちろん陸地だったが、地質学的な時間のなかではときどき海の底だった、京都。おおむね陸地で、たまに海底、という京都の地史が、京都水盆の内部構造と地下水のあり方に大きくかかわっている。

まず、基盤岩は非常に水を通しにくい。その上に重なっている大阪層群の砂礫層では構成粒子が大きく、粒子間に隙間ができるため水を通しやすい。粘土層では粒子が小さく、粒子同士は互いに接して密に詰まっているので、水を通しにくい。

地下水が安定的に存在するためには、通水しやすい層と、しにくい層の双方が必要となる。前者の下に後者があると、砂礫層から水が抜けずに保たれる。保水している砂礫層にアクセスすれば、そこから地下水を得られるというわけだ。

京都の地下には、盆地周辺の山から運ばれてきた砂礫と、満ちたり引いたりしていた海に由来する粘土が、ミルフィーユのような層をつくっている。京都盆地あたりの大阪層群は、約100万年から40万年前に形成されたもの。そのころに海面上昇をもたらした大きな気候変動と、次の同程度の温暖化による海面上昇とのあいだにつくられた、いまは地下にある過去の地表面。その中に、水は息づいているのだ。

鴨川の水かさと連動する、不思議な井戸

下鴨神社に仕える社家の鴨脚〔いちょう〕家には、不思議な井戸があるという。その井戸は深さが4mほどで、地表側と地中側で井戸の輪郭が異なる。井戸の底は円形、中程は四角形で、地表では水が溢れ、地形のくぼみに沿った園池となる。

井戸の水位は鴨川の水かさが増すと上がり、減ると下がるという。その動きは御所の井戸とも連動しており、鴨脚家では鴨川や御所の井戸の水位を、居ながらにして知れるというのだ。水位によって形が変わる井戸のデザインは、水位計のようなものなのだという。下鴨神社〜鴨川〜御所は、北東から南西にほぼ直線的に並び、比較的近接している。

この不思議な井戸のことを楠見さんに尋ねてみたところ、下鴨神社〜鴨川〜御所を結ぶ不圧地下水(地下20m程度までの地層にある地下水のこと)の流れのラインは同じだろうとのことだった。

楠見さんが京都市内7,553本のボーリング(掘削)データを2001年に確認した結果によると、地表に近いところ(表層地質)で粘土ではなく砂礫が多い地層は左京区に多く、また下鴨〜御所〜神泉苑のラインで伸びているという。NHKスペシャルの取材班がボーリング業者に実施したヒアリングでは、白い大粒の砂礫が硬く締まった地層が鴨川から御所にかけて確認されている。

現在の京都御所は、江戸中期以降に天皇の居所となった里内裏というものだが、この御所の中だけでかつては100カ所を超える井戸があったそうだ。そのうちのひとつで、現在もこんこんと地下水が湧く井戸がある。御所の東に隣接する、梨木神社の染井である。名前の通り、かつては御所内で染め物に使われていた井戸だというが、誰にでも開放され飲用可能な数少ない京都の井戸として、容器持参で水汲みに来ている人が絶えない。

最近、ここの水でコーヒーを淹れるカフェが染井の南側にでき、京都の地下水の味を、その場で、またコーヒーというバリエーションで楽しめるようになった。冬も氷をたっぷり入れた水出しコーヒーを出している。店をまかなう牧野広志さんによると、これがいちばんのおすすめとのこと。氷も染井の水でつくっている。

牧野さんたちは定期的に染井を掃除していて、飛び入りの参加者もいるそうだ。京都の井戸が結ぶ、新しい風景と人間関係を垣間見られる場所になっている。

染井から流れ出る水。

PHOTOGRAPH: NORIKO MATSUDA

かつての名水・名井戸はどこへ?

京都にはかつて、多数の名水・名井戸があった。『枕草子』には名水として九つの井が挙げられ、都七名水、茶の七名水、西陣五水、伏見七名水など、名井のラインナップは京都内の地域ごとにある多彩さであったが、なかでも三名水と呼ばれたのが、染井、縣井〔あがたい〕、佐女牛井〔さめがい〕である。

佐女牛井は戦国期の茶人たちに愛された名水だったが、第二次世界大戦中の堀川通の拡幅工事によって井戸自体がなくなった。縣井は御所の中にあった縣宮という社のそばの井戸だが、水は出なくなっている。名水・名井と呼ばれた井戸の多くは水が涸れており、かつての名水を復活させようという井戸については、近傍で60m程度掘り下げた地層から取水されている場合が多いようだ。

枯れてしまった井戸が多いのは、農地の宅地化などにより地面の被覆率が格段に高くなったことで、地表近くの砂礫層にあまり水が通っていないからだと楠見さんにうかがった。それより下の砂礫層にはかなり豊富に水が存在しているものの、浅井戸だったかつての都の名井には水が供給されにくい。

浅井戸の枯渇は、昭和10年の大水害を受けた戦前から戦後の河川改修によって鴨川の流路が固定され、護岸もコンクリートで固められたことで、伏流水がまわりに滲み出さなくなったということも大きいようだ。また、地下水を飲用水として用いる場合には、浅い砂礫層の汚染の可能性を避けて、深めの砂礫層からの取水を選択するからでもある。

冒頭にも述べたとおり、京都の上水は明治時代に、近代都市化の三大事業のひとつとして莫大な資金と高い技術を用いて敷設された琵琶湖疏水から供給されるようになった。第一疏水は明治23年の竣工である。京都の上水は、いまもこの明治の遺産によっている。

南禅寺の境内を突っ切っていくレンガ造りの水道橋を水路閣というが、琵琶湖から引かれてきた水がその上を流れている。そんな赤レンガ時代の土木施設が、いまも138万人都市の上水を支えているのだ。

ごく少量のみが使用されている「京都水盆」の水

京都で日常的に飲まれ、使われている水は、99%以上が琵琶湖疏水を通じて運ばれてきたものである。この地の足元にある京都水盆の水は、相対的には極めて少量しか使用されていない。

その地下水のわずかな日常的な使い手は、湯葉、豆腐、麩などの食品製造業、伏見に集中する酒造業、そして堀川や西洞院通り界隈に多い友禅染などの染め物業者である。水道水の化学物質が製品に影響することを避けるからだ。和菓子屋や料理店の一部でも井戸をもっている。

事業用地下水の利用量が最多であるのは友禅染だというところは、いかにも京都らしい。布表面の糊や染料を流水で洗い流す必要があるのだ。この作業を担う事業者を、水元〔みずもと〕という。ある工場では、1日に100〜120トンの地下水を使うそうだ。

京都市上下水道局によれば、井戸の使用件数は下水道の使用届けを通じて把握されている。井戸の定義は「水道水以外を水源とするもの」で、いわゆる井戸以外に湧き水も含まれる。なお「湧き水」には、地下構造物構内にしみ出す地下水なども含まれる。そして下水道の使用届けは、手動式井戸を用いる場合を除き届け出が必要となる。

以上の前提の上で、京都市上下水道局の『統計年報』の掲載数値を用いて算定すると、2022年度時点での京都市内で届け出がある井戸のみからの排水は約540件で、水道と井戸を併用した排水は約4,770件ある。

双方を足すと井戸が関係する下水道使用件数は5,300件超となり、思いのほか多いような印象もあるが、水道のみからの排水は約78万4,790件あるので、井戸のみ及び水道と井戸を併用した下水道使用件数は、水道のみからのそれにおける0.6〜0.7%ということになる。

なお、京都市の下水道使用料は一般用・公衆浴場業用・共用の3種類の体系で、公衆浴場業用の下水道使用も一般用とは別途計上されている。公衆浴場用は約100件あるうち、井戸のみを使用する下水道利用は約10件、水道・井戸併用は約75件、水道のみは約15件である。

全国で地下水の揚水量が多い業種をみると、例えば東京都では、区部の低地部では公衆浴場で同範囲の約4割、区部の台地部では公園・遊園地で同様に約3割、多摩地域では上水道事業で約6.5割である。

楠見さんによると、京都市内の地下水利用量は、大まかに見積もって年間1億トンほどではないかという。また楠見さんの試算によると、京都盆地に流れ込む降水量は年間約120億トンで、そのうち45億トンが地表を流れる鴨川などの水であり、淀川経由で大阪湾に注ぐ。計算上は同量の45億トンが地下に浸透し、残る30億トンは蒸発するという。

京都水盆の大きさは、先に見たとおり、南北約33㎞、東西約12㎞で、最も深いところが約800mである。その約125立方キロメートルの水盆の砂礫層に、試算によると211億トンの水が溜まる。しかも、京都水盆から水が外に流れていく出口は、地上では男山と天王山が向かい合う地形の狭隘部で、鴨川・宇治川・木津川が合流して淀川となるいわゆる三川合流地点のほぼ真下の1カ所しかない。

京都水盆には、西南側一方向にだけ小さな注ぎ口がある。片口の器、乳鉢のような形のお椀だと言えるのだ。またそれゆえに地下水が別のところへ移動していく速度は遅く、京都水盆には基本的にいつもたっぷりと水が蓄えられている。

つまり京都の地下水利用は、貯水量のうちまことにわずかな量を使っているだけではある。楠見さんによると、京都の地下水利用にはまだ余裕がある。ただし、酒造業のように地下水の汲み上げ量が多い井戸が特定の地域内に集中する場合には、取水層の深さを変えるなどの工夫が必要になるようだ。

PHOTOGRAPH: NORIKO MATSUDA

地下にあるコモンとしての「京都水盆」

時代によって姿を変えながらも、一貫してこの都市を流れてきた太い地表水の流れが鴨川である。京都では多くの住民がその流れに日々出合いながら暮らしている。京都という都市が、「山紫水明」など古来より水と結びついてイメージされてきたのも、都市の中心を流れていく地表水である鴨川のありようは大きいのだろう。

それに加えて京都では、地下水に対する市民の意識も非常に高いと感じる。地下水を日常生活に用いる割合は、ここまで確認してきたように相対的には非常に少なく、一般的にはまれなはずだ。しかし、鴨川をはじめとする豊かな地表水のランドスケープ、すぐ山向こうにあって常々お世話になっている琵琶湖、各種の庭園にある池泉、神社の手水や、茶庭・町屋のつくばいなど、大小さまざまな水面が生活景のなかには分布している。

都市の中で湧き出し、一時的にそこに留まり、流れ、蒸発していく多様な水景-水系。それに触れることが多いのが、京都というまちでの暮らしの特徴かもしれない。

そんな日常を過ごしながら、「京都水盆」という言葉がインプットされた後の都市イメージの体内変革は大きなものだ。大勢の人が多様な経済活動をするこの地面の下に、ある共通の自然基盤を抱えている、というイメージが、ぐわんと立ち上がるからだろうか。

古生層の基盤岩の上に、変動する地球の気候史を反映した地層が折り重なり、水は、その結果としてこの都市の地中を流れている。地下水は、国や行政の管轄というわけではなく、もちろん特定の企業などのものでもない。共有財である。それは地下のコモン、大地のコモンなのだ。

創業1803年の京菓子司である亀屋良長本店の醒ヶ井水。京都の繁華街・四条通りのすぐ北側にあり、誰でも汲むことができる。

PHOTOGRAPH: NORIKO MATSUDA

これからの都市像と現代コモンを描く起点として

日本には、惣有や入会と呼ばれる共同体の共有財がある。それは前近代の共同体のかたちに対応的であり、それに近い現代の人的範囲において、いまも維持されている。それらには、水源地、山林、浜、池沼などがあり、かつて意味をもったものとしては、屋根の葺き材を調達する茅場、燃料を採取する里山などがあった。

現在も土地の共同体の経済に不可欠で、入会地の性格を色濃く踏襲するものに、例えば漁村では沿海の漁場や魚付林、網干場などがある。いくつかの温泉町の温泉源は、惣有の性格を色濃く残す。

先に、京都の地下水に対して、惣有や入会という日本固有の共有材の呼び名を使わずジェネラルに「コモン」と呼んでみたのは、「京都水盆」という大きな地理的存在に対応する規模の共同体は過去にはなく、京都水盆それ自体のこともわかっていなかったことを踏まえてのことである。

ちなみに楠見さんによれば、京都水盆の範囲とは、北山・東山・西山で限られる京都盆地の中だけでなく、男山〜天王山の三川合流地点に、京都と奈良の府県境のほうから北上してくる木津川の地下も含まれるという。木津川流域の盆地は山城盆地という。京都水盆は、京都盆地と山城盆地を足した、南北にかなり細長い地域の地下構造ということになるようだ。

楠見晴重さんの研究室に立てかけられていた、京都周辺の立体地図より。三川合地点はこの地図で「橋本」とあるあたり。京都水盆の南限は、同じくこの地図の中央下方に「木津町」とあるあたり。

京都の地下構造調査は、近隣地域で発生した巨大地震を受けて、防災上必要と認められたことで実施された。地下構造を知るには他にボーリング(掘削)コアデータをつなぎ合わせるやり方があるが、ボーリングは点で実施されるので、相当の数量がないとデータ間の情報をつなぐことが難しい。

また、京都の基盤岩は比較的深い位置にあるので、そこまで掘り下げたボーリングデータは、京都市地下構造調査の際には、そのために掘られたKD-0、KD-1、KD-2孔という3本しか存在しなかった。地下構造を面的に把握するには、反射法探査や重力異常値探査が適している。だがその実施には、大変な費用を要する。

京都の地下水分布を把握したいからという理由だけでは、とてもそんな大がかりな調査は実施できないし、予算もつかない。京都盆地全域の地下構造を知るための重力探査には防災上の緊急性という背景があり、京都水盆は、いわばその調査データを活用・応用することで姿を現したものだった。

東洞院六角にある、食をテーマとする商業施設「京都八百一本館」の井戸。災害時の飲用井戸などとして開放されている。

PHOTOGRAPH:NORIKO MATSUDA

自然科学の成果によってその土地の基盤的な性格や構造が明らかになり、それに基づく土地の資源性や環境的価値が確認され、さらにはそれが、人文科学的・文化的に認知され、広く人々に共有されるところまでゆけば、そこにはジェネラルな意味での現代コモンズが発生しうるだろう。京都水盆という言葉と認識の広まりと、京都の地下水への関心や意識は、その優れた例に育ちうるように感じられるのだ。

経路が限定されたインフラは、危機のときに脆弱でもある。ライフラインをその場で得られるのであれば、その利用可能性は十分に顧みておくべきではないか。

そして京都という都市の生活、文化、経済に個性を与えてきたこの地の水とその循環を科学的に理解して受け継いでいくことは、今後の都市像を描くにあたっても非常に重要なことではないかと思う。

謝辞:本稿の執筆にあたっては、関西大学教授の楠見晴重さんに、情報の提供や原稿の確認など大変お世話になりました。この場をお借りして、お礼申し上げます。


松田法子|NORIKO MATSUDA
1978年生まれ。建築史・都市史。京都府立大学大学院生命環境科学研究科准教授。主著に、『絵はがきの別府』(単著、左右社、2012)、『危機と都市──Along the Water: Urban natural crises between Italy and Japan』(共編著、左右社、2017)など。近年は「領域史」や「都市と大地」といったテーマを経て、ヒトによる生存環境構築の長期的歴史とそのモードを探る「生環境構築史」などに取り組む。

◉注釈

*1 このシリーズは、なかでも「文化と経済の好循環を創出する京都市都市戦略」の策定に向けて実施されたもので、そのうちリサーチツアー&レクチャー部分を、「水と都市」と題して株式会社ロフトワークと共同設計した。


*2 河角龍典「都市史研究とジオアーケオロジー ──古代日本における都市開発と微地形──」,『シンポジウム「都市と大地」シリーズ 都市史の基層として大地・地面・土地を考える』,日本建築学会都市史小委員会編・発行,2014


*3 重力探査… 重力異常の分布から、地下構造や地質構造を推定する探査法。地球上の重力は、厳密には場所によって異なる。計算上の重力と、計測された重力の差を重力異常という。土砂などの堆積が厚い層は、岩盤(基盤岩)の層に比べて密度が小さく、計算上の重力に近い。地下の比較的浅い位置に岩盤があって堆積物が薄い地点では、重力異常値が大きくなる。この違いを利用して、三次元的に地下構造の概要を把握する。

◉参考文献

井上勝弘・楠見晴重・山田邦和ほか著『NHKスペシャル アジア古都物語 京都 千年の水脈』、日本放送出版協会、2002
地学団体研究会京都支部『新 京都五億年の旅』、法律文化社、1990
京都市『京都盆地の地下構造に関する調査 総括版』、2003

(Edited by Kotaro Okada)


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