初音ミクをフィーチャーし、「死」「終わり」をテーマとした2012年の『THE END』から始まった渋谷慶一郎によるオペラプロジェクトは、「オルタ」というアンドロイドのヴォーカリストと段々と共進化し、その間に取り組まれてきた仏教の伝統音楽である高野山・声明とのコラボレーション、障害をもつ子どもたちを合唱者に迎えた『Super Angles』(21年初演)と接続されることで、そのパースペクティブはとてつもなくクリアになる。
2024年6月18日、約6年ぶりに開催される「アンドロイド・オペラ」東京公演は、『Super Angles』と、2022年にドバイで初演されたオルタと声明のかけ合いを観ることができる『MIRROR』の二部構成。たった一夜限りの集大成披露の場である。
『MIRROR』を皮切りに始まった今回の渋谷の話は、10年弱に渡るアンドロイドを軸とする活動の総論となった。
──このたび『MIRROR』が日本で初めて公演されることになりましたが、そのタイトルの意図からお聞きできればと思います。
アンドロイドは見た人それぞれが違う印象を抱くんです。一昨年、オルタの新型「オルタ4」ができたときも、笑ってるとか、かわいいとか、またはさびしそうとか、人によって印象が違いすぎるというか。極限までミニマルなルックスだからこそ、見ている人の気持ちを映し出すんだなと思いました。
それと、ぼくのつくる音楽も関係していて。ぼくは感情的に音楽をつくることはあまりないんですね。「俺の心の叫びを聴いてくれ!」系ではないというか(笑)。映画音楽をつくるときも「この映像、色彩、カットに対してこういう音があったらいい」という感じでつくっていくから、言ってみればどんな映像にも合うんです。悲しいシーンに合わせると悲しく聴こえるし、うれしいシーンであればうれしい音楽とかラブソングのように感じられる。そういった計算がないにもかかわらず。
──音楽によって、個々人それぞれの感情が喚起される、と。
このことはぼくの特徴になっていて、アンドロイド同様に、ぼくがつくる音楽もある種の鏡なのかなと思い始めたんです、ある時期から。さらには、『MIRROR』に出演する高野山のお坊さんたちの仏教においても、鏡は重要な概念になっています。つまりアンドロイド、音楽、仏教が鏡でつながったので、このタイトルにしたんです。
──今回トピックスとして挙げたいのが、いま話にも挙がったオルタ4と、 2019年に上演された『Heavy Requiem』でコラボレーションしたお坊さんたちによる声明(しょうみょう)との共演を観られることだと思います。まずは、オルタ4がどのような進歩を遂げたのかを教えていただけますか。
順を追って話すと、6年前、2018年に日本科学未来館でアンドロイド・オペラ『Scary Beauty』は「オルタ2」で日本初演をしたんです。ただ、オルタ2は音楽向けではなかったので、リハーサルと本番とで相当な酷使をしたら壊れて、“死んで”しまった。
もう使えない、どうしようと思っていたときに、縁あってMIXIと「オルタ3」を共同開発して世界中で公演したりしたのですが、引く手あまたで再び酷使され(笑)……。そんなとき、新たに声をかけてくれたのが大阪芸術大学だったんです。非人間と音楽、テクノロジー、サイエンスをかけ合わせたラボ(=「AMSL(アンドロイド・アンド・ミュージック・サイエンス・ラボラトリー)」)を立ち上げ、そこでアンドロイドをつくりましょうと言ってくれたことで、オルタ4が生まれました。
アンドロイドの開発は石黒浩さんですが、オルタ4で特筆すべきなのは台座のデザインを妹島和世さんが担当してくれたことです。オルタ4というアンドロイド自体が、さまざまな分野のコラボレーションメディアになる。そこが出発点でもあったんです。
──より精度が上がったフォルムやルックス以外に、オルタ4の、特にパフォーマンス面で注目すべきところはありますか?
「オルタ4」ではこのプロジェクトにプログラマーとして参加されている電子音楽家の今井慎太郎さんと、歌と即興の開発に集中してきました。特に『MIRROR』ではオルタ4の即興がかなりフィーチャーされます。オペラというのは、大きくわけて「アリア」と「レチタティーヴォ」のふたつの要素で構成されています。アリアは歌の部分でテノールやソプラノ歌手がソロで歌う見せ場。レチタティーヴォは会話のかけ合い。『MIRROR』におけるレチタティーヴォは、声明とオルタのかけ合いで進んでいき、その間、オーケストラは休みになるので、近未来の宗教を想起させるような風景が広がります。
声明は1,200年以上の歴史がある日本で最も古い音楽で、メロディも言葉も一切変わっていません。言い換えれば、歌詞も節もメロディも絶対に変えてはいけない。お坊さんたちは、全体のストーリーに相応しい曲を選択して唱えているわけですが、その曲の歌詞をオルタはAIで学習し、さらに声明にかぶせる歌詞をGPTで生成している。要するに歌詞は決まっているけれど、どう歌い、どうかぶせていくかはお坊さんのそのときの歌を聴きながらオルタが即興するので、公演ごとに毎回変わるんですよ。
ドバイでの公演時は、アウトプットできる即興の領域を超えてしまい、最後の30秒間くらいオルタがフリーズしながら「アーーー」と言い続ける状態になってかなり焦りました(笑)。
──渋谷さんもオルタが声明にどう応えながら進んでいくのかわからない。
そうですね。どうかぶせていくかは、ぼくもまったくあずかり知らないんです。
──声明についてもう少しお聞きしたいのですが、声明は口伝(くでん=口頭伝承のこと)が主で、楽譜に当たるものはあっても重んじられてはなく、西洋音楽の十二音平均律で成り立っているわけでもないですよね。西洋音楽からノイズと、幅広く作曲をされている渋谷さんの耳に、声明はどのように聴こえているのでしょうか?
ぼくはシンセサイザーで音程とレゾナンス(=共鳴、共振。指定した周波数帯域を強調するパラメーター)の関係を同時にずらしていくということをよくやるんです。簡単に方法を言うと、まずコードを弾いてペダルで押さえて持続するドローンをつくり、鍵盤を弾かずにいろいろなパラメーターのつまみを駆使して即興し、その音をRec(録音)したりしています。そういったことをすると、ピッチと波の周期が次第に変わっていくのですが、それはドレミの世界ではもはやない。ぼくにとっては、声明もそういった感覚ではあります。
ただ、ギターやピアノといった西洋由来の楽器で即興をしたとしても、結局はロックやポップスなどの現代の音楽にならったものになりやすい。西洋音楽には調和から非調和に進化していった歴史がありますよね。十二音というものすごくキツい戒律から逃れるために複雑化していき、崩壊し、そして誰も聴かなくなった(笑)。
西洋音楽をベースにした即興を観たり聴いたりすると、その歴史を時間圧縮して再現している感じがするときがあるんです。ものすごいノイズを鳴らしたり、意図的に非調和にするというか。そのおもしろさはもちろんありますし、ぼくも電子音楽ではその極北のようなものを目指していたんですが、面白いのは、声明の演奏家である僧侶の方たちはそのモードにまったくいないっていうことなんですね。そんな話、まったく知らない。
音楽的なこと以前に、仏教徒である彼らのポリシーというかフィロソフィーには、調和がいかに可能かということがある。それはもちろん音楽自体にも言えて、ほかで鳴っている音楽がどういったコードで、どういった調で構成されていて、どう転調するかは知らないけど、とにかくわたしたちは鳴っているものに対して近似値で調和しますっていう音のとり方なんですね。
その彼らの「調和」の仕方を西洋由来のものに慣れ切っている人が聴くと、音が外れているんじゃないか、と混乱するかもしれない。でも、大きな流れで見ると合っている。ただ、ミクロな視点で見ると微細なずれを含みながら行ったり来たりしている。ぼくが声明に魅了されている理由は、十二音を複雑に組織化する方法では生み出せない複雑さがあるからで、さらに言うと、これは調和と言えるのか、あるいは非調和なのかといった問いが内包されています。
──西洋音楽の極北とも言えるオペラというプラットフォームを使って、そのオルタナティブを探求されているわけですね。最近、多元的という言葉がよく用いられますが、そうは言ってもやはりグローバルノースが先陣を切っていて、例えばAIの開発者は西洋人の男性が多い。その文化圏に古くから残っているオペラの形式を使いながらメッセージを発信する試みは、後から大きな意味をなしてきそうですよね。
そうそう。オペラで合唱と言うと、天上の声とかみんなの総意を歌ったりするけれども、声明は音が低いので、真逆の地底へ行くように感じる。それはモーツァルトのレクイエムのようなものとは逆の合唱のあり方で面白いと思うし、日本人しか思いつかない。
先日、南米のペルーに行って、シャーマンの儀式を受けてきたんですよ。アマゾンのジャングルに2週間ほど滞在したのですが、夜になるといろんな虫の音や動物の鳴き声があたりで鳴り響いていて、シークエンスに当てはめれば当然ずれているんだけれども、全体としては調和している。それぞれに時間と生命があるんだっていう感覚を得られて。それはものすごい収穫でした。
──先ほどの「複雑さ」や「調和」「非調和」の話とかなり通ずるところがありますね。ペルーでの体験は創作にも影響を与えたのでしょうか?
最近、「Abstract Music」という多次元的なサウンドインスタレーションにも取り組んでいます。空間に設置したいくつものスピーカーを用いてマルチチャンネルで出力するものなのですが、出力されるデータは、つくりかけや断片が詰まっているぼくの巨大なハードディスクなんですよ。
その音はシンセサイザーやコンピュータージェネレートでできたもので、声もシンセティックボイスのみとすべて人工的な音。プログラムがそこから1〜8個のサウンドファイルを完全にランダムで選び、同時に走らせながらマルチチャンネルのなかを音が駆け回るんですね。そうすると、ぼくのデータであること以外に共通項がない音が調和していく。
さっき話したペルーの大自然の中のような状況が、人工的な音でもランダマイズと動きを与えてあげることによってつくれるんだということは、示唆的だなと思っていて。無限にあるサウンドファイルは、選ばれるたびにピッチと再生範囲が変わるのと、サウンドをスピーカー間を走らせているアトラクターも常に変化しているので、二度と同じことが起きない、つまり、二度と同じ瞬間は来ないんです。
──アンドロイドと声明の融合もそうですが、Abstract Musicに関しても集大成であり、共鳴の新たなアプローチだと言えますね。
アンドロイド・オペラは確かに集大成なので、少し振り返って『THE END』から『Scary Beauty』の流れを言うと、ぼくはずっと夢想していたんです。世界は確実に終わりに向かっている。そんな状況下でどんなものをつくり、発表すべきか、と。
ドバイの後にパリで『MIRROR』をやった際、いろいろな取材を受けたのですが、ヨーロッパの記者たちによく「あなたはAIが人間を滅ぼすのを見たいのか」という非常に古典的な質問を投げかけられました。それでぼくが言ったのは、「悪いんだけど、正直に言ってすごく見たい」と。「主導権を握るのがAIであろうが、なかろうが、世界は終わりに向かっている。それをもし防げないのであれば、終わることを祝祭したほうがいいし、もし終わった後の世界が美しかったら、その祝祭にも一理はあるんじゃないか」って答えたんです。
お坊さんが声明を唱え、アンドロイドとオーケストラが共に演奏し、親友であるビジュアルアーティストのジュスティーヌ・エマールによる重厚な映像がつく『MIRROR』という作品は、終わりの後のシミュレーションなんですよ。
──相まみえてこなかったもの同士が交錯しながらも、美しく調和していく。
ぼくは2014、15年あたりからアンドロイドと仕事をし始めて、17年にオーストラリアでプロトタイプ版の『Scary Beauty』を初演したのですが、そのころに抱いていた疑念、恐怖心があって。それはこのコンセプトは新しいのだろうか、あるいは古いのだろうか、ということだったんです。
その後にVR(仮想現実)やAR(拡張現実)が盛んになって、バーチャルな方向にシフトしましたよね。ただ、そういった潮流が一時的にできても、人間の形をしたテクノロジーはやはり強いし、それを使って表現できること、伝えられることはたくさんあるはずだと思っていろいろやってきたのですが、最近になってアンドロイドにAIが乗り、NVIDIA(エヌビディア)がFigure AIに出資したりしているのを見ると、予想が当たったなと思います。要するに、人をメタファーにすることで出来ることは人にとっては変わらない。なので、いまのほうがアンドロイド・オペラに対するリアリティがあるし、オファーの数や種類を見ていても高いシンパシーもあるんじゃないかと思いますね。
──ありがとうございます。最後に、今後やっていきたいこと、目論見などが何かあれば教えてください。
今回のアンドロイド・オペラでオープニングを飾る『Super Angels』をリメイクして、巡回させたいなという気持ちがあります。舞踏、演劇、映像、そして視覚や聴覚に障害をもつ子どもたちの合唱を横断させ、これまでになかった世界を見せるというのは有効なコンセプトだと思うし、2021年の新国立劇場での初演の際はCOVID-19もあり、実現できなかったことがぼくのなかでは大きかったから。
あと、ATAKから『MIRROR』のアルバムが出る予定です。6月18日の「アンドロイド・オペラ」東京公演の日に。いまは、ちゃんとリリースされるといいなぁと思っています(笑)。
(Edited by Tomonari Cotani)
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